大阪府立春日丘高等学校  
 
 
             

 

東北被災地訪問プログラム 現地速報

第3日目
 気仙沼・南三陸町立志津川中学校・石巻工業高校を訪問しました。この3日間見て考えさせられたことは、筆舌に尽くしがたいものでした。 多くの方から、「現地を見るしかない。そしてそれを伝えるのが我々の責任だ」と言われた意味がようやく分かりました。 とはいうものの、どのような言葉でもうまく伝えることができません。参加した生徒たちにとっても文章で表現することに大変苦労しています。 またどうしても長文になってしまいますが、皆さまにも何かが伝われば幸いです。

南三陸町の風景
 南三陸町の景色は石巻や気仙沼とは少し違い、まだまだ震災当時のまま手付かずの状態だと感じました。石巻や気仙沼は、がれきが集められてキレイにされ、街も仮設のコンビニが建てられたり、市場が開かれたりして人の姿が多く、少しずつだけど前に進んでいる感じがしました。しかし、南三陸町は、がれきは撤去されていただけで人の姿もほとんどなく、本当に以前この場所に誰かが住んでいたんだろうか、震災前の風景が逆に想像もつきません。
 中でも私が印象に残ったのは、防災対策庁舎あとです。津波の影響で建物は赤い鉄骨の骨組みだけになっていました。ここで職員の人たちが、自分の身の安全より、町の人を心配して避難を呼びかけている最中に津波に巻き込まれたんだと思うと、何も言葉が思い浮かびませんでした。また、そんな簡単に言葉で現したらいけないと思いました。私たちがTVや新聞で見ていると、復興しているかのように見えますが、実際に見てみると復興なんて言葉は使えないと思いました。やっぱり実際に見ないと分からないことがたくさんあるんだなと思いました。(Y)

南三陸町立志津川中学校の訪問
 午前は志津川中学校を訪問させていただきました。まず当時から志津川中学校に勤務されている先生に当時の状況を話していただきました。 地震の直後、生徒全員を体育館に集めたあと、先生方が生徒の防寒具を取りにいった時に津波が来たそうです。 志津川中学校のある南三陸町は宮城県のなかでも特に被害の大きかった地域の1つで、高台にある中学校から町を見下ろすと町は一面海になっていたそうです。 私が聞いた話の中で印象に残ったことが2点あります。1つ目は中学生の態度です。 生徒たちは直接津波を見ておらず、翌日になって初めて自分たちの町を見たそうなんですが、衝撃が大きすぎて、口数が少なく、受け入れられていない感じでした。
 でも子供たちは不安を表に出しませんでした。みんな被害を受けたのだから
自分だけ(不安を)口にはだせない・・・、強くならないと・・・、大人にならないと・・・、 自分の家族が迎えに来ない、何かあったのか・・・、 こんな気持ちが押しこめられているから、 笑っていても、元気そうにみえても、外見だけでそういうフリをせざるを得ないということが多かったそうです。

 でも先生方は 「自分の思いを吐き出す。それで現状を受け入られる。」とおっしゃってました。 自分の気持ちを他の人に聞いてもらうだけで落ち着き、 現状を理解し受け入れることが大切だといくことです。 私には宮城の方々の辛さをすべて理解することや共有することは出来ませんが、 少しでも共有できるようになりたいと思いました。
 2つめは中学生の行動です。 家族が迎えにきた生徒たちが各避難所で自治会を運営し、避難所の区画整理、炊き出し、車の誘導などの手伝いしていたというのです。 自分のできることを一生懸命やろうと考えていた反面、自分たちも何かやらなければならない、やらざるをえないと考えたのではないかと先生はおっしゃっていました。 実際にこの土地には、動ける大人・高校生達は遠くまで通勤通学していて帰ってこられず、 残っている人は高齢者が多く、動き回れるのは中学生だけでした。
 それでもすごいと思いました。 自分がその立場にいても行動が出来るか分かりません。 私はそんな時に動ける彼らを尊敬します。
  この後、志津川中の女子卓球部のみなさんにお話しをうかがいました。 震災の後世界各国から送られた励ましの言葉の中で一番嬉しかった言葉は 「頑張って」ではなく「頑張ろう」だそうです。 「頑張って」は放っておかれて忘れられるような気になり 「頑張ろう」は共にやっていこうという気持ちが嬉しいそうです。 これからも卓球を続けると言っていたみなさん、 ぜひ頑張ってください!応援しています!(S)

石巻工業高校
 今回のプログラムの最後の訪問先は、石巻工業高校でした。 まず訪れた校長室で、校長先生に少しお話を伺いました。 石巻工業高校は高台にないため、震災の時の津波によって浸水したあとがまだ部屋に残っていました。 私には想像しきれない現実がそこにあったんだと実感した瞬間は、言葉が出てきませんでした。 また物質的な復旧・復興のあとは、人の復旧・復興が必要になってくるという話を聞きました。 がれきが片付けられることや、街に建物がたつことと、人の気持ちや繋がりが前向きに進んでいくことは、また違うことだということです。 今回の話を聞くまで、大阪に居るときには考えもしなかったことがいくつもあり、はっとさせられました。
 次に今年の3月に本校野球部と交流試合をした野球部を訪れました。 そこの監督さんに、震災当時のたくさんのお話を伺いました。  震災後に残った道具はバット1本とボール2つだけだったこと。 支援物資として全国から送られた沢山のボールは使っておらず、最初にもらったボールだけを何度も修理して使い続けていること。 野球部の皆さんは、自身も被災されたにも関わらず、自ら行動し、グラウンドに積もったヘドロを掃除していったこと。 一心に頑張り続ける彼らの姿を見て、たまたま通りかかった専用の機械を持つ業者の方が、思わず手を差し伸べたこと。 様々な所でそれぞれがボランティア活動をしていて、なかなか自分たちの避難所にいなかったこと。
 監督さんは、野球部の皆さんを「強い」とおっしゃっていました。 「あいつらは何か強いものをもってる」と。 私たちと同年代の皆さんが、意思をもって行動したということを聞いて、「私たちにもそれが出来るか」だけでなく、「出来るようになるには日頃からどう行動していけばいいか」と、考えていかなければならないな、と思いました。
 この訪問で私が1番心に残ったのは、監督さんが震災直後から何度も何度も同じ事を色んな人に話してきている事です。 また聞きさせるんじゃなくて、毎日違う記者に直接話をして生の声を伝えていく方が意味があるんだと言っていました。
 この方だけでなく、3日間で出会った何人もの方が、震災の被害を受けていない人に事実を伝えようとしてくれています。 だから、私たちが積極的に聞きに行って、東北やその他の県、そして人を、繋げて伝えていかないと、いくら被災した方たちに強い気持ちがあってもこの状況はずっと変わらない、と思いました。 これからの世代が何も知らないまま大人になってしまう、と思いました。
監督さんがこのような考えをお持ちでなければ、今日お話を聞く事は出来なかったと思います。 本当に感謝しています。
 そして、最後に、春日丘高校から持ってきた寄せ書きと、本校の野球部からのビデオレターをお渡ししました。 そしてこちらは、タオルやボールなどのグッズを、石巻工業高校さんから頂きました! お互いの高校の野球部員の中には、今も連絡を取り合っている人もいるようです。 石巻工業高校の方に「春日丘高校さんと出会えて良かった」と言っていただけた時は、とてもとても嬉しく、早く本校の野球部員に伝えたい!と思いました。 石巻工業高校の野球部員の皆さん、監督さんに出会えて、お話が聞けたのは、本当に貴重でした。 直接聞いた震災の様子、人の様子、同年代の皆さんのこと、また、避難所での生活のことも、絶対に忘れずに伝えて行きたいと思っています。(W)
           
  津波で道路と橋が流された   気仙沼線 コンクリート橋も流され土台のみ残る   遠くの家の2階のみが流されてきた    
           
    南三陸町 がれきは撤去された   防災対策庁舎 鉄筋しか残っていない   防災対策庁舎の周囲 街が消えた    
           
    志津川中学校の先生からお話を   中学生の皆さんと交流   校舎からは街だったところが見える    
                
    石巻工業高校野球部。グラウンドのヘドロ除去をされたそうです。   寄せ書きを手渡しました。春日丘へお土産をいただきました   3日間一緒で泊まってもいただいた運転手の方と。感謝しきれません