大阪府立春日丘高等学校  
 
 
             

 

東北被災地訪問プログラム 現地速報

第2日(現地1日目)
2人のドライバーさんが交代で安全運転をしていただき,気仙沼に到着しました。
高速道路が整備されて、かかる時間が随分と短縮されました。 宮城県南三陸町・気仙沼市は街全体で盛り土がされており、毎年風景が変わって、元の姿はまったく想像できなくなっています。
盛り土のため防災対策庁舎跡を対岸から見ましたが、震災遺構として残すため、防災庁舎跡だけが低い土地の ままで、周囲は3階の高さまで盛土が進んでいます。

午前・午後:大島 カキ養殖場での支援活動
気仙沼の主力産業の一つであるカキの養殖。津波の被害に加え、町から流れた油に火がついて島を大きく焼いたそうです。 そのとき養殖いかだも燃え、家や作業所もすべて失ったそうです。かつての先輩たちがボランティアに来た時に、作業所建設などをお手伝いしました。 今回は、周辺の伐採した枝を片付けるお手伝いをさせていただきました。
船に乗せていただいて、養殖についてのお話を伺い、養殖筏の上も歩いてみました。かなりはらはらしましたが、みんなうまく歩いていました。


午後:未希の家 訪問
南三陸町の町役場から、放送で避難指示を呼び続けてなくなった、遠藤未希さん(当時24歳)の、ご両親から 当時のこと、8年たって、こどものこと、なぜ民宿「未希の家」を始められたのか、どういう思いで続けておられるのか、 いろいろなお話を伺うことができました。生徒たち、それぞれに思うことがあったようです。

           
  南三陸町 防災庁舎跡付近   おばあさんが訪問   大島で作業場まで山越え    
           
    船の上で   養殖筏を見せていただく   養殖筏の上で    
           
    撤去した枝を集める   防波堤にて   防波堤にて    
           
    集合写真   未希の家   未希の家にて    
生徒たちからのメッセージ


【2年 堀本】
まずは1日目夜行バスは初めてで、不安もありましたがサービスエリアで止まった際に新しい地域の名前を見るたびにだんだん仙台に近づいているなと実感が湧いてきました。 まず着いて見たのはかさ上げされた土地で去年とはあまり変化がないらしくて、それほど大変な作業だというのが伝わりました。橋がかかったり道路が完成されたところが増えてそれはとても喜ばしいことで、民泊先の方も便利になってよかったと語られていて早くすべての土地が整備されたらいいなと思います。 かきの養殖場は完全に波にのまれたらしいですが、今は完全に復興していて全くそのような様子はありませんでした。 実際にかきのいかだに乗ることもでき、生のかきを見て1年分の成長の違いもわかっていい経験ができました。小松さんが、小屋はボランティアの力があってこそできたものであり感謝しているとおっしゃっていて、その喜びと嬉しそうな表情がとても心に残っています。 みきの家への訪問では当たり前の日常のことに感謝すること、いのちの大切さ、生きていることの素晴らしさを学びました。講演をしてくださった遠藤さん夫婦が話していたことはなにもかもが心に響き、 私も素直な人になろう、人生の目標を決めようと心に決めました。被災者同士で震災の話はできなくて、こういった他地域の人やボランティアの人とならなんでも話せると言う言葉は、毎日新聞の高尾記者がおっしゃっていたことそのままでした。 小松さんも遠藤さんもボランティアのことを深く感謝されていて、このようにボランティアの活動は誰かの役に立ち喜ばれていると思うと、やる気がさらに出てきました。 この気持ちで明日からの活動も頑張っていきたいです。

【2年 在田】
金曜日の夜に北摂つばさ高校に集合し、そこではじめて東北プロジェクトのメンバー全員で集まりました。その時はまだ東北に行くという実感が湧かず、長時間のバス移動が初めてだったということもあり、とても不安でした。サービスエリアに着くと毎回目が覚めたので、そのたびに携帯のマップアプリで現在地が東北に近づいているのを確認していると、少しずつ実感が湧きました。そして不安とは反対にバス移動は快適なものだったので、自然と不安もなくなりました。朝になると、防災庁舎のある場所に着きました。震災後の防災庁舎の様子はテレビ放送でよく見ていたので、実際に自分の目で見ることができてよかったです。防災庁舎は12mほどある高い建物なのに、見ることができたのは3階部分だけでした。それは、防災庁舎の周りが嵩上げされていたためです。3年連続で東北プロジェクトに参加している先輩からは景色が去年とほとんど変わっていないと聞いたので、嵩上げ工事にあまり手が回っていないのかなと思いました。バスの移動中、町全体が新しい建物やお店がならんでいる地域があり、そこは津波の被害が最もひどかった地域だと聞いたので、とても驚きました。空き地はまだたくさんありましたが、なにも知らずにその場所を通っても違和感を感じることのないくらい復興しているように感じました。しかしある場所では、津波の被害に遭ったそのままの状態で放置されているような建物があり、建物の中が物でごった返している様子を実際に見ると津波の恐しさを改めて感じました。 大島では小松さんの牡蠣の養殖場でお手伝いをさせていただいたり、船に乗せていただきました。自然の中で体験させてもらうことはすべて新鮮で、自然の力の大きさを感じました。小松さんから震災時のお話や先輩たちの活動についてのお話を聞き、毎日新聞社さんでの事前研修で学んだ「てんでんこ」が難しいことだというのがよくわかりました。牡蠣の養殖場が津波で襲われた直後の建物の屋根がない写真を見せていただきましたが、8年経った現在は復興しているように思えました。その復興には先輩たちの活動も役に立っていると聞き、私も誰かの役に立つ活動をしたいなと思いました。 「未希の家」での未希さんのご両親のお話はとても心に響きました。未希さんがどのような人であったのか、未希さんを失われたあとどのように今まで暮らしてこられたのか、などを詳しく話してくださりました。家族を失うことがどのようなことなのかは、考えても想像がつきません。しかし、お話を聞いたことで少しでも近い想像ができるようになった気がするので、良い経験をさせていただけてよかったです。 民泊で受け入れていただいたお家には憧れの縁側と土間があり、感動しました。震災時のお話や気仙沼の食についてのお話を聞くことができ、東北についてもっと興味が湧きました。

【2年 井上】
南三陸町の防災庁舎では震災の傷跡を見ることができました。とても綺麗になっており、周りの土地は15メートルもかさ上げされて、川の周りには堤防ができていました。当時の写真が近くにありました。辺りは防災庁舎と病院以外はほとんど建物の残骸でした。とても怖かったです。 大島のヤマヨ水産では牡蠣の養殖現場を見ることができました。海に浮いているイカダで養殖していました。イカダの数は全部で110個以上だそうです。その中で育て始めてすぐのイカダと一年経った後のイカダを見ました。育て始めは軽くとても小さかったです。一年後の牡蠣はとても大きくなり素人では持てそうになかったです。牡蠣を育てているとムール貝や昆布などもくっつくそうです。ムール貝などは牡蠣と同じものを食べるためたくさんあると大変だそうです。駆除するには75度の海水に10秒漬けるとムール貝や昆布は死滅しますが、牡蠣は無事だそうです。また初めて牡蠣の養殖イカダに乗ることができました。とても不安定で動くのは大変でした。牡蠣の養殖とは別に手伝いもしました。切った木を移動させるという手伝いです。少人数では大変で沢山の人で協力してできました。 遠藤さんの「未希の家」で話を聞いて未希さんはとてもすごい人だと思いました。緊急事態なのに落ち着いて、住民のために働きかけることは僕には難しいと思います。遠藤さんが当時のことを思い出すのはとてもつらいことだと思います。ですが、現地の人から話を直接聞けて良かったです。被災してなお現地に住む続けていてすごいと思いました。海には魚や海藻がありますが、自然は危険なこともありとても怖いことがわかりました。

【1年 高橋】
一日目はまず、さんさん商店街のあたりから防災庁舎を見ました。私は以前この志津川を訪れて防災庁舎を見たことがあったのですが、その変貌ぶりに驚きました。土地の嵩上げが進み、防災庁舎は4階から上しか見えていませんでした。もう、昔の被災した当時のことを思い出すことも難しく、思い出が無くなって消えていくような、そんな気持ちになりました。 その次に小松さんが営む牡蠣の養殖業を見学しました。見学前までは、身構えていてどのように接すればいいのか不安でしたが、小松さんたちは非常に明るく接して下さり、緊張がほぐれました。被災をしてイカダがすべて燃えてしまいましたが、元どうりとまではいかなくても、約50基ほどのイカダを所有しているそうです。その見学の中で小松さんが仰っていた「来て頂けることが嬉しい」というのが、先日行った毎日新聞社への事前研修にて聞いたことと一致していて、ここに来られて良かったなと、思いました。見学の後は枯れ木の運搬を行いました。これは行政の手が回らない細かな作業なので本当に助かると仰っていたのが印象に残っています。 最後に未希の家にて遠藤未希さんのご両親である、清喜さんと美恵子さんのお話しを聞くことができました。家族を失う悲しみが私には計り知れないものでした。生きていることが辛く、生かされた命であるため死に逃げることができない。それでもここまで生きてきて、この未希の家という民泊を行っています。そうするまでにどれほどの苦労があったのかそれを考えるだけでその膨大さに押しつぶされそうになります。そのような状況でもここまでこれたのは、ボランティアのおかげだと仰っていました。また、そんな外部の人たちでないと言えない事があるとも仰っていました。なので一日を通して、ボランティアはとにかく来て話しを聞くだけでも十分なんだとわかりました。もちろん被災地の方を考えて、あれやこれやと考える事も悪くはないですが、それ以上に被災者の方々の気分が少しでも良くなればいいと思うので、まずはたくさん話を聞くことが一番だと感じました。

【2年 深沢】
はじめての深夜バスでしかも15時間という長さで不安でしたが、思ったよりもあっという間でした。 まず宮城に着いて思ったことは、街がきれいだということ。トイレにしても道路にしても新しくて、そう思うと同時にここが津波で流されたんだなと実感しました。またこれだけ作り直すのにどれだけの費用がかかっているのか考えると胸が痛くなりました。そんなキレイな街を見て復興が進んでいることがわかりましたが、その中でもやはり工事中の場所は何個かあったりして、まだまだ復興が完了するには時間がかかりそうでした。 牡蠣の養殖場の小松さんの話では、津波で建物が流されたそうですが、まるで津波が来たとは思えないぐらい今普通に養殖を行っているようでした。ご家族も私たちが訪れてすごく楽しそうに笑っていてよかったです。しかしその裏にはたくさん苦労があって、私たちの先輩方が大きな力になったとと聞いてすごくうれしかったです。大阪からボランティアしに行く意味が確かにあるんだと思いました。 みきの家でのお話を聞いたことは特に貴重な体験となりました。「生きたいのに亡くなった人がいるから私たちは生きなければならない」というみきさんのお母さんの言葉が印象的です。娘を無くして心がボロボロになっても、娘が自分にどうして欲しいかを考えて、生きる意味を見つけたお母さんも、厳しい避難生活で優しく明るく人々を支えたお父さんも、素晴らしい方だと思います。お二人もまたボランティアの方々の力が大きかったとおっしゃっていました。最後のお父さんの言葉を聞いて、想定外という無責任な言葉に負けないように私たちは災害について日頃からもっと注意深くならなければいけないと思いました。

【1年 西村】
1日目、あまりよく眠れないまま、宮城県に着きました。バスの外へ出ると、南三陸町の防災庁舎がありました。15メートル以上もの土を積み上げ、今に至っているそうです。当時の被災の様子が写真に残っていて、とても道路が整備されたことに驚きました。 牡蠣ヤマヨ水産では、山の枝の処理のお手伝いをさせていただきました。雨上がりでとても蒸し暑く、たくさん汗をかきましたが、とてもいい経験になりました。他にも船に乗って牡蠣の養殖を見させていただいたりと、普段大阪ではできないことがたくさんできてよかったです。行きと帰りは山道を通り、とてもしんどかったですが、達成感がとてもすごかったです。また、帰りには命の橋を通りました。今年の4月にかかったばかりで、この橋のおかげでたくさんの救える命があり、町の人たちの生活が豊かになったそうです。 その後、未希の家を訪れました。津波が来てもなお、町の人たちに避難をアナウンスして行方不明になったそうです。遠藤未希さんのご両親のお話にはたくさん考えさせられるものがありました。当たり前がなくなってしまう悲しさと怖さを、忘れてはいけないと感じました。未希さんの性格や、ご両親のすばらしさにはとても胸が温かくなりました。特に、「生きたい人が生きれなかった。生かされた人が死にたいと思ってはいけない。前を向いて生きようと思った。」と言う言葉はとても印象深かったです。出発の前に先生方がおっしゃっていた、支援しに行ったつもりがいつのまにか自分も支援を受けている、ということがわかったような気がしました。 民泊では、3月11日の様子やその後の支援、救護のお話を伺うことができました。美味しいご飯も食べれてとても幸せでした。

【1年 中川】
今日初めて被災地に来て、まだまだ工事中の場所や空き地が多くあったけど、震災直後の写真からは想像できなくらい復興が進んでいて驚きました。写真で見ていた地面の高さをかさ上げしたところは、実際に行って見てみると、その高さがかなりあることがわかり、こんなに高くしないといけないなんてと津波の高さがすごいことを改めて感じました。 牡蠣の養殖場で、牡蠣がどのように養殖されているのかを知り、その大変さも同時に学びました。そんな大切に育てた牡蠣が焼けてしまうなんてどんな思いだったんだろうと思いました。また、まさか家が流されるとは思わず寝たきりの家族を家に置いて行った人もいたと言う話を聞いて、あんなに大きな津波は本当に想定外だったんだなと思いました。 未希の家で、未希さんのご両親のお話を聞いて、想定外だったって簡単に言ってはいけないと思いました。想定外だったから仕方がなかったと簡単に思ってしまうけど、仕方がないですましていい命なんて絶対にないので今後想定外という言葉を簡単に使うのはやめようと思いました。そして、未希さんのお母さんがおっしゃっていた想定外を考えることをしようと思います。また、生きることが辛いという言葉から残された家族の辛い思いが感じ取れました。 その他にも、未希さんのお父さんが奥さんを亡くすことは今をなくすこと、おじいちゃんとおばあちゃんを亡くすことは過去をなくすこと、子供を亡くすことは未来をなくすこととおっしゃっていたのがすごく印象に残っています。 民泊でお話を聞いて、津波が家を流した時にたった砂埃が入道雲のようだったとおっしゃっていて、改めて津波の威力を知りました。また、震災から数日後に取られた写真も見せてくださり、被害の状況がまた少し想像できました。また、写真はなかなかとりづらいともおっしゃっていました。 せっかく東北に来たので、もっとお話を聞いて学んで帰りたいと思います。

【2年 加藤】
まず防災庁舎を見に行ったが、かさ上げされていて5階の部分しか見えなかった。でも5階が見えるということは、自分が立っているかさ上げされた地面よりも上に波が来たということなので津波がどれほど脅威だったのかを想像する事は出来た。もうありありと津波の痕を見ることは出来ないけれども、家の無い空き地があったり、暮らしの中に津波が住んでいたりして8年でいかに復興が進んでいるか、また、残っているかを伺えた。 防災庁舎を見たさんさん商店街にはモアイのイラストが沢山描いてあり、気になり調べてみたらチリの方で起こった地震の津波が来たことがあり、その記念にモアイが贈呈されたのだとか。津波は恐ろしい災害ではある一方で、国や地域を越えた繋がりを生むものでもあるのだと知った。 未希さんのお宅でご両親が、今になって気づくことも多いとおっしゃっていて、決して気づくのに早ければいいということは無いけれども、もっと早く気づいていればと後悔しないようによく見て、よく聞いて、よく感じて沢山考えて生きていきたいと思った。 未希さんのご両親もホストファミリーの方もボランティアの方や第三者の存在は大きくありがたいと仰っていた。1日町を見ていて復興している部分も多く見えたので、私達に何が出来るのかがわからなくなりかけたが、新聞記者の高尾さんが仰っていたように一緒に話すこと、話しを聞くこと、それが私達の役目なのかなと感じた。また、次災害が起きた時率先していくのはおそらく私達なので沢山学び、活かして、生きたい。その為にも自分の目で見て肌で感じ、伝えていくことが大切だと思った。

【2年 大森】
大阪からバスで約12時間、気仙沼で最初に見たのは防災庁舎。この場所で津波が来ることを放送し続け、そのまま行方不明になってしまった遠藤未希さんの話を思い出した。防災庁舎は鉄筋の作りのみ残っていて、建物の周りも土地の嵩上げのために土以外はほとんど何も残っておらず、明らかに異質な光景だった。この場所に街があったということをまだ信じられないのは、この土地はこの8年で15mほど嵩上げされたことにより、もともとの地理が今はほとんど分からないということが一つの要因だと思う。防災庁舎を見た後は大島へ牡蠣の養殖を見に行き、貴重な体験やお話をきいた。海が綺麗な素敵な場所だった。だからこそ現実味がない。お話をしてくれた方のご家族は津波が来る前に逃げたので無事だったが、その地域では2人の方が犠牲になったという。 最後に未希の家という、防災庁舎で放送し続け行方不明になった未希さんのご両親が経営している海の近くに建つ民宿にお邪魔させて頂いた。未希さんはあの日から未だに見つかっていない。未希さんのご両親は何度も、民宿に来るお客さんや見ず知らずの私たちのために来てくださるボランティアの方に助けられてばかりだと話していたが、逆にこの場所に来て救われているお客さんも大勢いると思う。また、未希さんの人柄、性格を質問された時には頻りに「自慢の娘」だと嬉しそうに話しており、ああ、愛されていた人なんだなあとつくづく感じると共に、聞けば聞くほど会ってみたかったという想いが増した。被災者や遺族は1年目より2年目、3年目の方が塞ぎ込む人が多いと聞いていたが、未希さんのご両親もそう話していた。時間が解決するには長い年月が必要だと感じる。このお話の中で、一番印象に残った話は「祖父母を亡くすことは過去をなくすこと。妻(夫)を亡くすことは現在をなくすこと。そして子どもを亡くすことは未来をなくすことです。」という言葉だ。未希さんのご両親は未希さんを亡くしたことで、「未来」をなくしたままこれからを生きるのだと思うと胸が痛む。けれど、2人は未希さんが「亡くなった」絶対とは言わず、「いなくなった」という言い方をしていた。まだ行方不明である以上、また戻ってくることをどこかで信じているのかもしれない。 色々な場所に行く度、震災の爪痕が目の前で無くなっていくことがわかる。復興は良いことだ、けれど私は震災の爪痕を少しでも残して欲しい。今は「被災地に足を運べばわかること」が多いが、実際阪神・淡路大震災の爪痕は市街地にはほとんど残っていない。被災地に足を運んでも分からないことばかりなのだ。実際に見て、感じることが出来る私たちは考えなければならない。伝えなければならない。来年、再来年と行くたびにきっと同じ場所でも風景は一瞬のうちに変わっていくのだろう。今しか見れない光景、今しか味わえない感情を大事にしていくことが私たちに出来る一番大切なことなのだと思う。