この冬、あまりにも乱雑になった本棚を2日がかりで整理しました。そこには第2代校長の川上先生の式辞等を
まとめた冊子があり、なつかしく、しばらく手をと休めて読みふけりました。
私は新設校を二つ経験しています。初めは、第77高校として設立された本校であり、次は10年後、大阪府での最後の新設公立高校となった福井高校である。ここでは、教頭として学校運営に当たりましたが、このとき本校での体験が大いに役立ったことに感謝したものです。
昭和48年4月開校、学年は8学級で、私は学年主任として、学年経営の責任を任されることになった。今でも当時の担任の先生方の顔が頭に浮かんできます。青木、石井、安田、稲田、柿原、小西、城野の各先生方で、教員の総数は約20名、学年では私が一番年長で42才、みんな若かったのです。
当時、高槻市の高校受験は、いわゆる「高槻方式」と呼ばれたもので、本校には高槻市立第3、4、7、11、柳川中学校の卒業生が集中受験していた。この地元集中方式については、自宅が茨木市内なので、かねてから聞いてはいたが、入試が終了した段階でその実態が明確になった。
調査書の総合評価の「10」〜「5」までの幅広い学力をもった生徒が入学している。私には、このような生徒をどのように教科(数学)指導していくか、全く経験がなかったので、当初は試行錯誤の連続で、生徒に大変迷惑をかけたことを憶えています。今なら習熟度別の授業を考えるところですが、当時はすべての事について、すべての生徒を「平等」に取り扱うことが前面に押し出されており、現在の教育事情と比較して、隔日の感がないでもない。
しかし、生徒はみんな明るく、人なつこく、職員室はいつも生徒で賑わっていた。先生を手こずらせた者もいたが、その生徒も既に「不惑」の年、ご多幸を祈ります。
勤務した学校が統合され姿を消す、何とも言えない寂しさです。
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