創立30周年記念誌を発行するので、原稿をお願いしますとの電話をいただき「ハイいいですよ」と返事したもの、いざ書く段になり、早や30年になるのかと、歳月の過ぎるのも、早いものであると感じながら、当時のことを顧みて思いつくまま書くことにしました。
昭和48年2月1日付の兼務辞令が交付され、設立準備室に参りました。2月のある日、婦人会館の一室に集まり、高橋校長、川上教頭、安田、石川、奥野の諸先生の紹介があり、川上教頭より、1冊のファイルが渡され、読んでおくようにと言われ、その内容は、新設77高校「後の高槻南高校」の教育方針、目標、校章、制服の制定等々の基本的事項がきめこまやかに書かれてあり、私自身これをみて、大変なことだと思う反面、新しい学校作りに意欲が湧くと同時に、その責務の重さを感じました。
また2月のある寒い1日、「学校建設」の現場に参り高槻―大阪線の道路に「府立仮称77高等学校」の看板が目に写りました。田園の中にポツンと建つ校舎の一部が高槻南高校との出会いでした。48年4月開校から53年5月に転勤を命じられ、僅か5年1月の在職でした。その間工事は、1期、本館、特別教室。2期、体育館、プール、食堂。3期、グランド、緑化環境整備等でした。また生徒も1期生8クラス360名、2期生10クラス450名、3期生12クラス540名、計1,350名。教職員90名となり、学校としての形態が整いました。
私は3期生の12クラスの学年主任を任命され、学年経営と学級運営をまかされ、担任団の先生と週1回の打合せの時間を設けて生徒指導。学力向上。3期生としての自覚をもたせるよう努めました。1年次の校外宿泊研修は宿泊施設の関係で3班に分けて実施。2年次の修学旅行は、スキー研修と民宿でのクラス活動を取り入れた、画期的な企画であったと思います。
平成17年島上高校との統合で、高槻南高校の校名が消えることは、誠に残念でなりませんが、卒業生の皆さん高槻南高校を心の支えとして、今後もご活躍されんことをお祈り申しあげるとともに30周年記念を心からお喜び申しあげます。
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