輝いていた。
人はそれぞれの人生の中でもっとも誇りと自信に満ち、輝いている時期というものがあるが、私にとって高槻南の10期生を担任した'82年から'84年の3年間はそんな輝きに満ちた3年間であったと今、思います。
各クラス47名の10学級、野沢先生を主任とし、村尾・野本(1年次は我孫子)・浅井・藤田・上村・前川・塩山・山中・山尾各先生らと一緒に担任しました。私は当時30代前半、担任団も若々しく、実に仲が良かった。大いに仕事をし、遊び、笑いころげた。京都先斗町あたりをみんなで散策した時の野本先生の不断では滅多に見られぬ可愛くも大胆な行為は今でも楽しく懐い思い出されます。私は当時教務担当で選択の多さで複雑極まる3年次のクラス編成作業では元々その方面には不向きであったのかもしれませんが、秋から冬にかけてずーと頭を悩まし続け、府営芝生住宅の中の道路を走っていた時、知らぬ間に電柱に自転車ごとぶっつけてしまうことさえありました。それも野沢先生はじめ担任団の先生方が優しく見守り下さり、時に協力を頼めば気持ちよく応じて下さるといったことで助けていただきました。仕事を通じて協力しあう中でお互いの信頼感も生まれてきたものと思います。私が関係した6・14・19期生担任団と同じく本当にいい先生方ばかりでありました。
クラス担任としては1年次、文化祭のクラス出し物で「平和のための戦争展」を行い、好評を博したことが今でも一担任として一人一人の生徒の精力的でまた誠実な行動に尽きせぬ誇りを感じるし、また一社会科教師としても心ひそかに忘れられぬ誇り、喜びを感じています。夜遅くまで印刷室で印刷機を回し、小冊子をみんなで作り上げて校門を出た時の秋の澄み切った月夜の空が今もそのときの生徒たちの顔とともに忘れられません。
高槻南が輝き、その中で生徒も私も輝いていました。
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