22回卒業証書授与式における校長式辞

本日ここに、大阪府立八尾南高等学校第22回卒業証書授与式を挙行いたしましたところ、大阪府教育委員会教育長竹内脩様をはじめ、大阪府議会議員徳丸義也様、田中誠太様、大正中学校、亀井中学校、八尾翠翔高等学校、八尾警察署、南友会、同窓会(飛翔会)、PTAなど関係諸機関・諸団体のご代表、学校三師、茶道部指導者、歴代校長をはじめとする旧職員の皆様方、多数のご来賓のご臨席を賜り、卒業生の前途を祝福いただきますことに対しまして、高いところからではありますが、厚く御礼申し上げます。
 また、保護者の皆様には、多数ご列席いただき有難うございます。ただ今ご覧いただきましたように、皆様方のお子様185名にめでたく卒業証書を授与いたしました。入学式の日に皆様からお預かりしたお子様たちは、本校での日々の学習活動や部活動、様々な行事の取組みの中で仲間とともに努力を積み重ね、若者としてたくましく成長し今日のよき日を迎えました。心からお祝い申し上げます。
 さて、22期生の皆さん、卒業おめでとうございます。君たちは今、八尾南高校最後の卒業生として、高校生活での様々な思い出を胸に、将来の夢に向かって新たな一歩を踏み出そうとしています。
 この三年間を振り返れば、君たち一人ひとりの心の中に、懐かしい思い出が蘇えってくることでしょう。
 4月9日、合格の喜びとともに緊張気味で迎えた入学式。クラスメイトやクラブの先輩たちとの新しい出会い。そんな中で、君たちの高校生活はゆっくりとスタートしました。4月末には岐阜県ひるがの高原での2泊3日の宿泊研修に出かけ、「5分前集合」「挨拶の励行」「掃除の徹底」という学校生活の基本を学び、研修に次ぐ研修で疲れながらも、雨上がりの10qハイキングに挑戦しました。創立以来の伝統である新入生行事がこうして終わり、いよいよ君たちは八尾南生になりました。
  高校生活はじめての体育大会、文化祭、そして耐寒マラソンと先輩たちの躍動する姿に感動しながら、皆さんは一歩ずつ着実に成長してきました。
 後輩のいない学年進行の中で時には寂しい思いをしたこともあると思いますが、2年生の2学期には、3年生と協力してグラウンド一杯に薬物乱用防止の人文字をつくり、3学期には公立高校ではじめてのフィリピン・セブ島への海外修学旅行にチャレンジし、美しい自然の中で「体験ダイビング」や現地高校生との国際交流を実現しました。言葉や文化の違いがあっても心の交流ができることを体感し、その後の自信につながったのではないでしょうか。
 いよいよ3年生になり、進路の取組みが始まりました。皆さんは八尾南生の心意気を発揮し、3年生だけの体育大会、文化祭、球技大会などで工夫を凝らし、「これまでで最高」と評価される思い出づくりを進めてくれました。さらに、将来への夢の実現に向かう進路決定においても素晴らしい成果を収めています。
 今、君たちは卒業の喜びとともに、一抹の寂しさや前途への不安など様々の思いが胸に込み上げてきて、感慨ひとしおのものがあろうかと思います。
 卒業後の進路を切り拓くのは、君たち一人ひとりの力です。人生は決して平坦な道ばかりとは限りません。むしろ、幾つもの困難なハードルが君たちを待ち構えているといってよいでしょう。けれども、大切なことは、どんな時にも挫けずに夢を持ち続け、「自分らしく生きていく」ことではないかと思うのです。

 君たちが社会に旅立つにあたり、大阪が生んだ歴史小説家・司馬遼太郎さんの作品「洪庵のたいまつ」の中で描かれた一人のオランダ医学者の話を贈ることにします。その蘭学者の名前は緒方洪庵といいます。
 洪庵は、1810年(文化7年)に備中(今の岡山県)の足守藩という小さな藩の藩士の三男として生まれました。少年の頃、漢学の塾や剣道の道場に通ったのですが、生まれつき体が弱く、病気がちで、塾や道場をしばしば休んだといいます。少年の洪庵は、体の弱い自分が歯がゆくて仕方なく「この体、なんとかならないか」と子どもなりに思い悩んだようです。そこから洪庵は健康について考え、やがて当時はまだ物珍しかったオランダ医学を学びたいと考えるようになります。17歳の時に大阪に出てきて医学の初歩を学び、22歳になると今度は江戸に出かけ、働きながら修行を積み重ね、ついにオランダ語の難しい本が読めるようにまでなります。26歳から長崎へ遊学の後、29歳になって大阪に戻り医者として開業します。洪庵の評判が次第に高まるにつれて、各地から弟子入りする若者が増え、やがて洪庵は、大阪商業の中心である北浜に二階建ての民家を購入し、塾を拡張しました。この建物が史跡・文化財に指定されている「適塾」です。この「適塾」から巣立った門下生には、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉がいます。
  すばらしい学校であったといいます。この学校では、差別がなくいっさいが平等でした。さむらいの子もいれば町医者の子もおり、農民の子もいました。ここでは、「学問をする」というただ一つの目的で心が結ばれていました。洪庵はただ一人の先生として、自分自身と弟子たちのために12か条からなる医者の心得を示します。その第一は、「医者がこの世で生活しているのは、人のためであって自分のためではない。決して有名になろうと思うな。また利益を追おうとするな。ただただ自分を捨てよ。そして人を救うことだけを考えよ」というものでした。そういう洪庵に対し、幕府は「江戸へ来て、将軍様の侍医になれ」と誘うのですが、洪庵は断りつづけます。ついに断りきれなくなって53歳の時に江戸に向かうのですが、もともと病弱であった洪庵はその翌年亡くなります。
  司馬遼太郎は、こうした洪庵の生き方について、「かれは、名(声)を求めず、利(益)を求めなかった。あふれるほどの実力がありながら、しかも他人のために生き続けた」「かれの偉大さは、自分の火を、弟子たちの一人一人に移し続けたことである。弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。やがてはその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである」と述べています。
  これからの21世紀に求められるのは、緒方洪庵先生のように、自分自身をまっすぐに見つめ、自分が本当に実現したい夢や目標を見つけ、その実現に向かって精一杯努力する「人間として誇りをもった生き方」ではないでしょうか。厳しい時代とはいえ、君たちの未来には素晴らしい可能性が秘められています。また、君たち一人ひとりには、「若さ」と八尾南高校で培った「チャレンジ精神」が備わっています。どうか、自分の夢に向かって、失敗を恐れず、自分の力を信じて、自分らしく生きていって欲しいと思います。
  いよいよ、お別れの時が近づいてきました。健康にはくれぐれも注意してください。これからの君たち一人ひとりの人生が美しく花開くように心から応援しています。
 以上をもって私からのはなむけの言葉とします。

                         平成16年2月28日
                         大阪府立八尾南高等学校長 横山 正美

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