校長blog

校舎裏の池が干上がりつつあります。

今年の夏は暑いうえ、雨も極端に少なくなっています。 少し調べてみると、今年の7月・8月の雨量(堺)は、それぞれ87.3㍉・20㍉〔平年:154.2㍉・87.3㍉〕で平年を大きく下回っています。 さすがに池の水も干上がるはずです。 地球温暖化が叫ばれる中、年々熱くなっているように思います。 美原高生のみなさん、くれぐれも体調管理には十分に注意をし、この夏を元気に乗り切ってほしいと思います。

2学期 始業式がありました。

本日、始業式がありました。 久々に、美原高生のみなさんが元気に登校する姿を見ることができ、ホッとするとともにうれしく思いました。 2学期は1年で最も長い学期であるとともに、3年生のみなさんにとっては進路実現、そして卒業に向けて非常に大切な時期となります。 まだまだ暑い日が続きます。 くれぐれも体調管理には気をつけて、元気に登校するとともに、3月に笑顔で卒業できるよう頑張ってほしいと思います。

美原高校の歴史⑩【校歌】

校歌を見ると、本校に込められた思いや願いが詰まった、素晴らしい歌詞であることに誇りを持つことができます。この歌詞は、初代 湯口校長が大阪で有名な詩人であり、天王寺高校(湯口校長の前任校)の卒業生でもあった小野十三郎さんに依頼されたものです。 小野さんは、学校のイメージが全くないまま作るわけにはいかないと、校歌を作るにあたってわざわざ学校にお越しになり、屋上から景色を眺めるなどあちらこちら見られたよ...

美原高校の歴史⑨【PTAからのご支援】

設立当初のPTAの方々のご支援やご協力を拝見しますと、本校への期待と熱い思いが見えてきます。初代 湯口校長は創立10周年記念誌で、次のように述べられています。 歴代のPTA役員および実行委員の方々の献身的なご協力を得ましたことは、終生忘れえぬことで、感謝にたえません。喜びも苦しみも学校とともにしていただき、しばしば植樹・造園等のご寄贈をいただき、休日を返上しての環境整備や除草・害虫駆除等々、枚挙に...

昭和51年4月、第1期生405名が入学しました。記録を拝見しますと、まだまだ未完成で発展途上の学校であることから、校長先生をはじめ多くの教職員の方々のご苦労を垣間見ることができます。 湯口校長先生は入学生に、よく「フロンティアスピリット(開拓者精神)」を持つように言われたそうです。実際、校舎は未完成で体育館やプールもなく、教室がある校舎の横では増設工事が行われるなど、環境的には十分でない状況でした...

美原高校の歴史⑦【校章と校訓】

本校の校章は、初代 湯口校長が天王寺高校に勤務されているときにお世話になった、河内画壇の泰斗である壷井進二 先生(北淀高等学校 校長、奈良芸術短期大学 副学長を歴任)に依頼し、作成いただいたものです。 校章は、美原高校の「美」を図案化したデザインで、中央に高等学校の「高」を金であしらっています。図柄の下部は、六綱領の「自主・自律」の調和のとれた、しっかりと大地に根をおろした自己の確立をあらわしてい...

今回は、第1回入学式の式辞を通して、校訓である「自主・自立・堅忍・果敢・創造・開発」の六綱領を掲げられた精神について振り返りたいと思います。 《入学式 式辞より一部抜粋》 高校生として、「自主性」をもって行動する必要があるのは言うまでもありませんが、そこには自らを厳しく律していこうという自己に対する厳しい態度、「自律の精神」が必要です。そして、「自主」と「自律」は車の両輪のようなもので、自律の裏づ...

美原高校の歴史⑤【第1回入学式】

昭和51年4月、大阪府立美原高等学校(府立第102高等学校)として開校。くしくも美原町政20周年の節目となる年でもありました。 そして、4月8日に美原町公民館で405名の新入生を迎え、第1回入学式が挙行されました。当時の公民館のホール(5階)は狭かったこともあり、保護者の方々は入学式会場に入ることができず、4階で放送を聞きながら見守っていただいたようです。 入学式の式辞を拝見しますと、湯口校長から...

美原高校の歴史④【開校に向けて】

昭和50年3月、本校は第102高校として大阪府議会で建設が可決され、いよいよ6月に第一期工事の起工式を迎えました。広報みはら(美原町広報紙)には、7月に「昭和51年4月開校予定 美原町に念願の府立普通高校」と題して大きく紹介されるとともに、9月には「府立高校建設説明会」の模様が紹介されるなど、当時、町をあげて本校を応援していただいていたことが伺えます。 実際に、初代 湯口校長によると、地元の皆さん...

遺構の範囲は、設定したほぼすべての調査区から掘立柱建物跡や溝などの遺構が検出され、 学校予定地のほぼ全域にわたることがわかりました。 そのため、学校建設予定地の発掘終了後には、文化財の保護上、建設予定地全域について遺構保存のため校舎敷地の配置について検討されました。そして、敷地の北部にある池や山を残し、当時 一般的だった並列した二棟を渡り廊下でつなぐH型の校舎配置をやめ、遺構密度の低い用地の北側に...