3月1日、卒業証書授与式を行いました。74期生は、高校生活のうち3分の2をコロナ禍中で過ごした学年です。学校教育活動に様々な制約がある中、感染予防対策を徹底し、降りかかる困難を一つひとつ乗り越えて迎えた卒業です。そんな74期生に贈った式辞を読んでください。
濃厚接触者に特定されるなどの理由で卒業証書授与式に出席できなかった生徒がいます。辛かったり悔しかったり、複雑な心境だったと思います。18日(金)の午後に、校長室で、私から卒業証書を授与したいと思っています。74期生の皆さんが、これからも逞しく生きていくことを、心から祈っています。
令和3年度 卒業証書授与式 式辞
卒業おめでとうございます。
まずは、今日の日を迎えられたことに、心から感謝したいと思います。
新型コロナウイルスとの闘いの中で、辛さや寂しさや悔しさを噛みしめながら、多感な高校時代を生き抜いたあなた方は、私の誇りです。
そんなみなさんに聴いてほしい話があります。
1890年、アメリカ合衆国インディアナ州の貧しい農家に生まれた少年デーヴィッドの話です。
幼くして父親を亡くした彼は、工場で懸命に働く母親を助けるため、毎日の食事を作ることにしました。7歳の時、はじめて焼いたパンを工場に持っていきました。母親に褒めてもらったとき、彼は、天にも昇る気持ちだったそうです。
10歳で農場に働きに出て、14歳で学校を辞めました。短気で喧嘩っ早かった彼は、その後40回以上も転職し、29歳のとき、ケンタッキー州のガソリンスタンドの経営者になりました。
生活が安定したのも束の間、1929年に起こった世界恐慌で会社は倒産。彼は無一文になってしまいます。
10年後にガソリンスタンドを再建した彼は敷地の片隅に小さなカフェを開きました。料理が得意だった彼は自ら腕を振るい、行列ができるほど大繁盛したそうです。
しかし、そのわずか3年後、火災に見舞われ、彼は再び無一文になってしまいます。
試練の中で彼の脳裏を離れなかったのは、幼い頃、自分が焼いたパンを美味しそうに食べてくれた母親の笑顔でした。努力を重ね、彼は執念でカフェを再建します。
が、試練はこれだけではありませんでした。近くに高速道路が開通し、彼の店の前を通る車が激減してしまったのです。やむなく店を手放したとき、彼は65歳になっていました。人生の終盤で三度、無一文になってしまったのです。
失意のどん底で、生きる気力も失いかけていた彼を救ったのは、カフェの看板料理のレシピでした。
自分に残されたものはこれしかないと、来る日も来る日も1枚のレシピを持って各地のレストランを訪ね歩きました。その数なんと1000軒以上。やっと契約してくれたお店でこの料理を出したところ、大評判となり、彼は漸く息を吹き返しました。
この時の彼のレシピは今も忠実に守られ、世界中で愛される料理になりました。
その料理の名前は「ケンタッキー・フライドチキン」。そして彼こそ、ハーランド・デーヴィッド・サンダース。みなさんも良く知っているカーネル・サンダースです。
私がなぜ今日、カーネル・サンダースのお話をしたかわかりますか。挫折を繰り返したサンダースの人生がコロナ禍中の私たちと重なるからです。
どんなに努力をしても不運なことは起こります。
しかし、不運が不幸かといえば必ずしもそうではありません。不運を不幸と捉えるかどうかは本人次第です。デーヴィッドは確かに不運でしたが、不幸ではありませんでした。そのことは、今も店頭に立つカーネル・サンダース像の微笑みを見ればわかります。
彼は、7歳の時に見たお母さんの笑顔が忘れられなくて、料理で人々を幸せにしたいという夢を追い続けました。その夢の形が「ケンタッキー・フライドチキン」だったのです。
みなさんの人生にはたくさんの挫折や不運が待っています。コロナ禍で経験したことよりもっと厳しい現実に直面した時、あなたは自分を信じることができますか。
デーヴィッドが1枚のレシピを握りしめてレストランを一軒一軒訪ね歩いたのは、自分を信じていたからに他なりません。料理で人々を幸せにしたいという自分の信念を疑わなかったのです。
自分を信じるというのは、自分の信念や自分の優れた部分を信じるということです。他人との比較ではなく、絶対に譲れない自分という在り様を持つということです。
これこそが、卒業後のみなさんに課せられた共通の課題です。
私は今日まで、みなさんを自分の子どもだと思って接してきました。最後の最後まで厳しい話をするのは、不透明な世界に踏み出すみなさんへの愛情です。
泣いても笑っても、いよいよ今日は、みなさんを送り出さなければならない日です。
頑張っても頑張っても報われないときは、泣き顔でいいから帰ってきなさい。
八尾高校はあなたがたの故郷です。
だから「さようなら」とは言いません。
「いってらっしゃい」
またいつか会いましょう。