東北被災地訪問プログラム 現地速報
第3日目
3日目午前:陸前高田市
津波被害が大きく、2万人が住む町全体が被害を受けた陸前高田市。昨年まで山から大量の土砂を運んでいた、ビルの高さがあったベルトコンベアーも
撤去されて、町全体が土盛り作業が進んでいる。あと3年はかかるそうです。
来るたびに大きく様子が変わっているのがわかります。
東北被災地の現状は、「現地を見るしかない。そしてそれを伝えるのが我々の責任だ」と言われた意味が生徒たちにもようやく分かってきたようです。
とはいうものの、どのような言葉でもうまく伝えることができません。参加した生徒たちにとっても文章で表現することに大変苦労しています。
またどうしても長文になってしまいますが、皆さまにも何かが伝われば幸いです。
3日目午後:大島 カキ養殖場での支援活動
気仙沼の主力産業の一つであるカキの養殖。津波の被害に加え、町から流れた油に火がついて島を大きく焼いたそうです。
そのとき養殖いかだも燃え、家や作業所もすべて失ったそうです。高齢化も進み、草刈りが間に合わないということで、
草刈りと、出荷の時に必要なシール貼りの作業をお手伝い。大きく育ったカキを蒸していただいたり、
船に乗っていかだまで出て説明を受けたりと、素晴らしい経験をさせていただきました。
生徒たちより
【2年 中井】
2日目は、遺構として残されている旧道の駅を始めに見学し追悼したあと、フェリーで大島に向かい、カキ養殖場でボランティア作業をしました。
よく津波の程度を示す建物として代表的な旧道の駅は、本当にそのまま残されています。この道の駅には「タピック45」という名称もありますが、
その名前どおり、施設なちょうどサンドイッチを置いたような45°の三角形になっています。そして道の駅としてはかなりの高さがありますが、
これは津波からの避難場所として設計されたものです。実際、震災時には浸水せずわずかに残った最上部に数人が逃れ、助かりました。
タピック45は遺構として保存されるそうですが、その周囲に大きな公園を作り、震災を風化させないようメモリアル施設なども併せて建てられるそうです。
海に近いこの近辺はほぼかさ上げされ、元々の高さに残る建物はこの道の駅ぐらいになります。そして桜の木も植えられるそうですが、またいつかここを訪れる機会があれば、
立派に咲いた桜を見てみたいものです。
大島も10メートル強の津波が到達した所です。海には養殖のためのイカダが元のように並べられ始めています。お邪魔した水産業施設は、
もともとそこに家を建てていたそうですが津波で半壊し、さらに上の高台に家を再建して、家があった場所にカキの処理場を建てて営まれています
。すぐそこの海には新しく防潮堤が建設されていますが、それは当初はもう少し高くする計画でしたが、その近くに住む人々は高台に避難するから意味がないと役所に要請し、
低くしてもらった最初のものだそうです。あまり高くしすぎてスペースをとると養殖イカダを置ける数が減ってしまうんだそうです。気仙沼には実にたくさんの新しい防潮堤があり、
街もかさ上げされていますが、タピックで語り部をしてくださった河野さんによると、「作ったモノに頼るな。心に防潮堤を築け」ということです。
確かに、新しく高い防潮堤を作れば安心感も生まれ、街をかさ上げすると津波が来ても逃げようとしません。しかしその考えが東日本大震災で多数の犠牲を生んだのです。
東北には「津波てんでんこ」という言葉があります。「津波が来れば自分の身は自分で守れ、自分で逃げろ」という意味です。このような言葉は、
近年の技術発展により廃れつつありました。ですが、どんなに安全といわれるモノを作っても、結局、最後は自分の行動が物を言います。
優れた技術は時に私たちの目を覆い、妙な安心感を招いて安堵させます。自分たちが作ったモノのせいで自分たちが被害を受けるというのも些か奇妙なことですが、
もうそういう時代になっているのです。特に日本はその民族の勤勉さと勤労さによって支えられてきましたから、これはお国柄としてどうしようもありません。しかし、
何かを築く時、心の余裕をもってもう一度振り返って考える事はできる筈です。原発にしても何にしても、その少しの余裕が数多の命を救えた筈です。同じ過ちを繰り返した人間は、
記憶があまり持続しないという儚い生物ですが、そろそろ反省して行動に移さないと、先人たちにも失礼になると思います。
【2年 伊東】
3日目は、陸前高田市へ行きました。まず、日本大震災の追悼施設で震災の犠牲者の方々に黙祷を捧げました。
また、震災遺構である旧道の駅高田松原を訪れました。中を覗いてみると、突き刺さった大木や、
鉄の枠組みが丸見えになって痛々しかったです。このような、震災によって倒壊した建物や木を残してゆくことは、
現地の方々にとってはすごくつらいことだと思います。震災のことを一刻も早く忘れてしまいたい、
と思う方もいらっしゃると思います。それでも今後東日本大震災の傷跡を現地に残していく理由というのは、
やはり「東日本大震災と同じ被害を繰り返さないため」というのに尽きると思います。
現地語り部の河野さんが私達に当時のお話を聞かせて下さるのも、2日目に見た防災庁舎がこれからも残ってゆくのも、
私達が今回見てきた震災の傷跡全て同じ理由であるんだと、この東北プロジェクトに行って初めて強く実感出来ました。
午後からは大島で牡蠣の養殖を手伝わせて頂きました。これまで「震災の傷跡」を沢山見てきたなかで、
震災から「やり直してきた生活」を目にするととても新鮮でした。また、その傷跡の悲惨さと、
現地の方々の復興を願う思いの強さがより鮮明に感じられました。
そして、ここでお会いした方々の生活の基礎を、私達の先輩方がお手伝いなさっていたことを聞いて、
その先輩方程ではなくても、自分の活動も誰かの生活を助けることになるのかな、と元気づけられました。
また、震災を経験しても、家や仕事場を再建して、生活を続ける現地の方々の姿を見ました。
それをつい「元気だ」と形容してしまいそうになりますが、でも被災者の方々にとっては、
「そうするしかなかった」のだとふと気が付きました。本当に苦しくて悲しいのを隠して、
訪問した私達のために無理矢理つくった笑顔なのかもしれないな、と思いました。
沢山の人が関わって、被災者の方々も、ボランティアの方々も、みんなで前へ歩いてきた6年間は、
メディアで報道されてきたような明るいものだけではないのだということがわかりました。
耐え難いほど理不尽な悲しみを背負って、被災者の方々の今があるんだと、私達は絶対に忘れちゃいけないと思いました。
そして、その苦しみに気が付くことが出来たことを幸せに思って、これから沢山の人に伝えるべきだと思いました。
【1年 上原】
活動二日目。まず陸前高田の旧道の駅にいきました。津波到達地点がその建物やガソリンスタンドにあり、事前学習で見たことがあるのに実際に見ると15メートルというのは本当に高く、当時あった5.5メートルの防波堤も流されてしまったようです。水位が膝の下まででも立っていられないのに自分の身長の9倍近くまで津波が来ると思うと自分が高台に移動できるのかが不安になりました。語り部の河野さんの話ではこの道の駅では3人が助かったと聞きました。しかし町では1800人の方が流されてしまいました。また、河野さんの親戚の小学生は目の前で流されていく人を見たり、流されていく人と目が合ったりしたと聞きました。流されていく人たちに何もできないのは自分だとトラウマになると思いました。また、地震直後の津波警報では3メートルと言われていて指定避難所にも津波が襲い、多くの人が犠牲になりました。このことからそれまでの地震や津波への意識が低かったものと思われます。逆に小学校や近くのスーパーではマニュアルや訓練通りにすぐに高台のほうに逃げ、全員が助かったと聞きました。普段学校でする避難訓練を面倒くさいと思わずにすることが実は大切なものなのだと気づきました。
次に大島の牡蛎養殖場に行きました。まずそこのご主人にお話をしていただきました。大島では震災後に建設する防潮堤が高すぎて仕事ができなくなるので低くしてもらうように交渉したと言っていました。防潮堤が低くても避難をするという意識があれば高い防潮堤よりも被害を抑えられる。「人間が作ったものに頼らず人の心の防潮堤をつくれ」。私はこの言葉がとても心に残りました。人間が作ったものには限界があり、人の意識しだいではその限界を突破することができる。意識や考えというのは何よりも大切なものであることが伝わりました。
昨日の活動でも人の思いが大切ということを学びましたが、この二日間を通しては物体として残らないものに核心があるのではないかと思いました
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