府工歴史ギャラリー

[11] むかし府工の周りは何もなかった(5)

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 昭和15(1940)年11月3日の体育大会「合同体操」。

 写真左上の木造校舎は「国立大阪高等工業学校」で、昭和14年
7月から約1年間、府工と同居(居候)していた。のち中百舌鳥に移
転。現在の大阪府大工学部である。この建物は昭和20(1945)年
7月10日の、アメリカB29による大空襲で全焼した。

 右側は民家。学校の周囲は簡単な柵があるだけ。出入りは自由に
できたが、誰一人「とんずら」する生徒はいなかった。

 履中陵前の煙突のある建物は「国立傷痍軍人(しょういぐんじん)
職業補導所」(現在の大阪障害者職業訓練校)。戦争で負傷した人
が、再び働くことができるようにするための訓練所だった。
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