歴史散歩  彦根・長浜 (社会科見学会参加記録)

*実施日   2000.7.13(木)
*行き先と行程  湖東方面(井伊家の城下町彦根と豊臣家の城下町長浜)
            学校〔8:30発〕→彦根城周辺〔11:00〜13:00〕→
            長浜市内〔13:30〜15:30 〕→学校〔18:00着〕
I. 補習や補講などで参加できない生徒が少なからずいて実施が危ぶまれたが、 何とか最小限の人数で出立することができた。この日程のみならず、行き先や予算面など、 課題が山積しているのが現状である。
さて、7月13日、出発前の華やいだ雰囲気の中、バスは定刻通りに学校を離れた。 国道171線を走り、京都南ICから名神高速道路に入り、最初の目的地である彦根へと急いだ。 八日市までは順調であったが、彦根の手前で道路工事に伴う大渋滞に遭遇した。 目的地を手前にしてのノロノロ運転は、精神衛生に大変悪い。大幅な規制の割には、 工事車輛がたった2台だけのノンビリした作業であったことも、尚更、怒りを増幅させた。 思わぬ工事により予定時間が1時間もオーバーし、やっと彦根城近くの駐車場に到着した。 表門から城内に入った。奇麗に積み上げられた石垣を見ながら、やや急な坂道を登り、 天守へと急いだ。バスの冷房に慣れたせいで、外は余計に蒸し暑く感じる。そのため、 生徒の歩みは遅く、天守の入り口に着く頃にはだいぶ間隔があいてしまった。
 
彦根城は、姫路・松本・犬山とともに国宝に指定されている天下の名城である。姫路城に比べると 天守の大きさや美しさには劣るが、今も残る内濠や中濠、そこから見える景色は勝っている。 関が原の戦いで戦功をあげた井伊氏が、交通の要衝である彦根山に築城し、現在に至っている。 4年前に五回目の大改修が行われたばかりで、塗り替えられた天守の白壁の中を、 生徒は神妙な面持ちで通りすぎていった。私は、生徒の誘導に手間取り天守の中へは 入らなかったが、後で聞くところによると、彼らは板の間の感触を楽しんでいたとか。 夏はやはり板の間が快適である。
 
遅れ気味の生徒を天守に残して、先頭集団の生徒と共に、黒門から内濠を渡り玄宮園へ向かった。 この園は4代藩主が造営した庭園で、近江八景を模したと言われる。私は、この豪奢な庭園より、 隣接している楽々園の簡素な住居(茶室か)の方に興味を持った。
この建物は基礎の石組みを堅牢にし、強い地震にも耐えられるように設計されている。 この耐震建築といい、彦根城内にある牛蒡積みの堅固な石垣といい、 奇妙に湾曲した梁を組み合わせた天守の天井といい、当時の技術水準の高さを示している。 これらの建造物は4百年近くの風雪に耐え、今も悠然と構えている。

 
II. 玄宮園で生徒と別れた後、残り少ない時間を使って中濠に面している埋木舎を訪ねた。   この家は井伊家の控え屋敷で14男として生まれた井伊直弼が藩主になる前に住んでい た所である。部屋住みの彼は、たった4時間の睡眠だけで修養に励んだ。何事にも熟達 しなければ気が済まない彼は、武道や歌道、茶道、禅などの面で非凡な才能を示したと いう。庶子として前途に希望の持てない彼は、自らの住処を埋木舎と名付け、有り余る 青春のエネルギーを発散させたのだ。
 
こじんまりした屋敷を一通り見学した後、門を出ようとすると、受付の係員に呼び止め られた。少し時間があれば井伊直弼について説明したいと言う。バスの乗車時間が気に なったが、またとない機会なので拝聴することにした。小学校の校長であった彼は、資 料を見せながら、以下の点を主張した。
@ 直弼は、祖法である鎖国は守りたいが、もはや世界の大勢は交易であると考えた。 また,開国しても日本人は怜悧であり、上手く行動できるとした。
A 彼は、やむを得ず無勅許で条約を調印したが、朝廷を敬愛する心は強かった。
B 攘夷を実行したなら、外国の餌食となったであろう。直弼の洞察がなかったら、 近代日本はありえなかった。 こうして彼は、直弼の先見の明を高く評価し、攘夷論者により暗殺された無念さを力説 した。私は、年配の彼とは意見を異にするが、彼の言わんとするところはよく理解でき た。思わぬ成り行きとなったが、実に楽しい一時を過ごすことができた。茶の湯を愛し た直弼は、一期一会の縁を大切にしたと言う。私も、この埋木舎で一期一会の縁を強く 感じた。

III. 1時過ぎ、彦根から長浜へ向かった。湖岸を走る道路に出ると、琵琶湖が間近に見えた。 予想外の湖の大きさに、生徒は驚いていた。琵琶湖が見えなくなったかと思うと、 もうそこは長浜である。復元された長浜城横を通り過ぎて程なく、黒壁スクエア近くの 駐車場に到着した。
古来、長浜は、琵琶湖の水運や北陸への街道の拠点として繁栄した。この交通の要所を、 織田信長は秀吉に与えた。秀吉はこの長浜で、優秀な家臣団の育成に成功し、 天下統一の基礎を築いた。例えば、太閤検地を推進した石田光成、兵糧の管理に活躍した長束正家、 財政に精通した増田長盛などである。彼らは武術よりも算術に長けた最優秀の実務官僚であった。 特に長浜出身の石田光成は秀吉に重用され。五奉行の中心として豊臣政権を支えた。 彼と秀吉の出会いの場面を再現した彫像が、長浜駅前に立っている。 さて、バスから降りた一行は空腹に耐えかねて、黒壁スクエア付近のレストランや食堂に殺到した。 この黒壁スクエアとは、黒壁づくりの建物を復元しガラス館・美術館・みやげもの店などに 新装した一角を指す。町おこし運動の一環であろう。平日と言うのに、結構バスが発着し、 観光客をスクエアに押し出していた。生徒の方も彦根城よりも黒壁の方が気に入ったようで、 集合時刻の延長を訴えるものが何人もいた。
 
私は簡単な昼食を済ませた後、長浜御坊と呼ばれた大通寺に向かった。湖北での東本願寺の 拠点にふさわしく、山門や本堂は立派であった。ただ私はこの寺よりも、 古い町並みを偲ばせる門前通り(表参道)の方に興味を持った。昔ながらの町並み、 店頭で売られている日用品、年月を感じさせる水路など、黒壁スクエアにはない風情がある。 しかし、人通りは少なく、うら淋しい感じがした。黒壁スクエアの人波と対照的である。 新名所は旧名所を生み出している。
 
予定より少し遅れて4時前に長浜を出発し、帰路を急いだ。帰りは道路工事に伴う渋滞もなく、 6時前には学校に到着した。伝統ある城下町と町おこしをし始めた城下町を訪ねた一日であった。
     (社会科・社会見学係)

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