大阪府立春日丘高等学校  
 
 
             

 

東北被災地訪問プログラム 現地速報

第2日(現地1日目)
2人のドライバーさんが交代で安全運転をしていただき,気仙沼に到着しました。
宮城県南三陸町に入りましたが、街全体で盛り土がされており、全く雰囲気が変わってきました。 工事のため防災対策庁舎跡を対岸から見ましたが、震災遺構として残すため、防災庁舎跡だけが低い土地の ままで、周囲は4階の高さまで盛土が進んでいます。

午後:大島 カキ養殖場での支援活動
気仙沼の主力産業の一つであるカキの養殖。津波の被害に加え、町から流れた油に火がついて島を大きく焼いたそうです。 そのとき養殖いかだも燃え、家や作業所もすべて失ったそうです。高齢化も進み、草刈りが間に合わないということで、 草刈りと、出荷用の籠を洗ったり、船に乗っていかだまで出て説明を受けたりと、素晴らしい経験をさせていただきました。
           
  南三陸町 防災庁舎跡付近   まだ残る三陸鉄道の傷跡   カモメと戯れる    
           
    カキの養殖筏を見せていただく   船の上ではタイタニック?   出荷用の籠洗い    
           
    周囲の草刈り   刈った草を山にして集合写真   全員で集合写真    
生徒たちからのメッセージ


【3年高木】
バスの中ではしっかり休むことができず疲労が取れているか心配でしたが、予定通り問題なく動けて良かったです。朝には宮城県に入り、まず最初は南三陸町の防災庁舎をはじめとする被害を受けた地域に向かいました。現地にはもう仮設住宅はなく、土地のかさ上げ作業が進んでいました。しかし当時のままの状態で残っている防災庁舎は工事が進む中でも解体されずとても印象に残っています。他にも街と街を結ぶ三陸自動車道は今も工事中で三陸鉄道の線路跡にバスが走っているなど7年経った今でも被害の大きさを感じることができました。そのあとは気仙沼港(エースポート)から大島へフェリーで向かい、山を越え、牡蠣の養殖場で活動をしました。牡蠣の養殖の様子やカゴの洗浄作業や草刈りなどを行なったあと、現地の方や東北放送の記者の方からお話を伺いました。今日1日で一番印象的だったのは街や建物などはこの1,2年で復興されているということで、バスの運転手さんや昨年も参加した人でも「こんな道なかった」とか「こんな建物なかった」などの声を多く聞きました。高速道路や港など、まだまだ復興に向けて時間がかかるところは多いなと思いました。1年ごとに変わる景色を自分の目で見たいなと思います。ホストファミリーの家では美味しいナスやキュウリなどをいただきました。明日以降も頑張っていきたいです。

【3年油谷】
東北プロジェクト活動初日は、バスから南三陸町や、気仙沼市の震災や復興の様子を見て回ることから始まりました。箕面UNESCO協会の坂口さんのお話を聞きながら、復興の様子を見ていて感じたのは、復興の速度についてです。私にとって今回の東北プロジェクトの参加は3度目になりますが、やはり毎年東北に来る度に、街の様子が変わっているのがわかります。私たちよりも頻繁に被災地を訪れている坂口さんから、道が来る度に変わっていると聞いて、復興の進み具合を少し感じ取れました。また、震災から7年たった今でも行方不明を探し続けている方々が多くいるということを聞き、当然のことではありますが、大切な人々を失った心の傷の深さに改めて考えさせられました。 午後からは、気仙沼市のエースポートからフェリーに乗って大島に渡り、牡蠣の養殖場を営んでいらっしゃるヤマヨ水産さんでお手伝いをさせて頂きました。本業である牡蠣の養殖の復興を優先したため、手が回りにくくなったお庭の草抜きや、冬から始まる牡蠣の出荷のための下準備のお手伝いをさせて頂きました。また、牡蠣の養殖場の見学もさせていただくことが出来ました。大島の港から、作業場まで向かう途中に震災で発生した山火事のあとがそのままに残っていて、復興が進んでいる市街地との違いを感じました。また、東北放送の方のお話の中で、「思い出すこと」が1番の復興になるということを聞き、過去に、養殖場を営んでいらっしゃる小松さんが「忘れられることが1番辛い」とおっしゃられていたのを思い出しました。震災から7年経ち、当時小学生だった私達も高校生になりました。決して震災のことを忘れているわけではありませんが、やはり記憶の中で薄れてしまったり、風化してしまっていることも事実です。これからは東日本大震災を知らない、経験していない世代も増えてきます。その中でこの出来事を伝え続けていくことが、私達、東北プロジェクトの参加者の義務だと思います。来年には、大島に向かうための大きな橋が開通します。この橋は、大島に住んでいらっしゃる方々の50年以上前からの希望が叶ったものです。この橋は大島における復興が形となったものだろうと思います。初日は被災地の復興について改めて考えさせられる1日でした。

【2年和田】
牡蠣の養殖場がある大島に向かう道で、津波で甚大な被害を受けた南三陸町を通りました。去年初めて南三陸を訪ねたとき、私は瓦礫だらけで全く復興が進んでない、というイメージで行ったので結構復興は進んでいるなと感じていましたが、今年訪ねてみて、通路等は変わっているものの、盛り土の上に街並みがあることもなく、まだまだ人が住むには時間がかかりそう、いつまでかかるんだろうと感じました。この変化の度合いは、複数回訪ねてみないとわからないものだと思います。 今日聞いた話で、盛り土をするのにも土を所持している人の許可がいるのでなかなか進まないこと、盛り土の上に住宅を建てても、地盤が緩い、怖い、家賃が高いなどの理由で入居者が増えないことを聞きました。国の制度の問題、人々の意識の問題など、復興のためには壊れたものを直す、片付けるなどの人手の問題だけではなく、その他色々な問題を乗り越えていく必要があるんだなと痛感しました。 大島に着いて、牡蠣の養殖を実際に見せてもらいました。牡蠣を育てるのには、3年ほどかかり、くっついている他の貝の駆除など、ケアが欠かせないそうです。相当な苦労をして育てているのに、牡蠣を育てる土台のいかだがそれもろとも津波で跡形もなく全て流されてしまった、と聞きとても辛かっただろうなと感じました。 その後、色んな人の話を聞きました。特に印象に残ったのが坂口さん夫妻のお話でした。被災地に来ただけで「来てくれてありがとう」と涙を流したおばあさんの話、坂口さんが「忘れられるのが一番怖い」とおっしゃられたこと。はじめに考えたいこととして挙げた伝えることというのは、誰もに震災のことを思い出してもらって、少しでも被災者の方々の気持ちが救われるように、という意味もあるんだろうなと思いました。

【2年八島】
今日は防災庁舎やその近辺とと牡蠣の養殖場へ行きました。 防災庁舎付近は昨年度の東北プロジェクトで訪れたときよりも盛り土が進んでいて、街の復興も進んでいるように見えました。フェリー乗り場の横に昨年はなかった建物の骨組みがあり、少しずつ新しい建物も増えているようでした。東北放送の方がここ一二年で店が立ったりして復興が進んでいるとおっしゃっていたので、その通りだなと思いました。私は昨年今年とこのプロジェクトに参加してきたのでもし来年も行けるようであればこの3年間でどれだけ復興が進んだのかを比較したいと思います。 次に牡蠣の養殖場でお仕事の見学をさせていただきました。まず、私たちは船に乗って育てている途中の牡蠣を見に行きました。チリ地震の影響で養殖場のいかだが流され、やっと立て直した直後に東日本大震災で家まで津波に浸かって全壊したそうです。震災から七年が経った今では牡蠣もしっかりと成長していてそこに至るまでの苦労は相当なものだったのだろうなと思いました。牡蠣を見に行った後は箱の洗浄や草刈りをさせていただきました。牡蠣の養殖場を後にする前に東北放送の方と坂野さんのお話を聞かせていただきました。震災直後に駆けつけた高校生たちにおばあさんが泣きながらありがとうを言ったという話を聞き、自分にできることがしたいという心だけでも人を温かい心にできることを知りました。私は今回の東北プロジェクトでコミュニケーションを大事にしたいと思っています。そして今日、坂野さん達の話を聞き人と人との繋がりは大切だと再認識することができました。

【1年井上】
今日朝南三陸町をバスから見た。工事中の防災庁舎を見た、ここでは震災当時最後までアナウンスして亡くなったという人の話を聞いた。そして今南三陸町はかさ上げ工事を行っていて、公園などを作る予定らしい。バスから周りを見たらほとんどが平地になっていた、昔は住宅などがあったと思う。道路が整備されていて昔より移動しやすくなったらしい。しかし、震災から7年経った今でも工事中であり復興しきれていない現状にある。昼前になりフェリーに乗ってカモメとたわむれながら、大島に向かった、ついてすぐ軽登山をしました、その中の木々を見ていくと葉っぱのなくなっている木々があった、これは津波や火事によってなくなったらしい。その後牡蠣養殖場につき昼食後、船に乗って牡蠣の養殖しているいかだを見た、そこで一年もの牡蠣と2年ものの牡蠣を見比べた大きさが全然違っていた、津波ではこれが全て流れていたと思うと恐ろしく感じた、震災から7年経った今ようやく起動に乗ってきたらしい。次にカゴ洗いをしたたわしでゴシゴシこすったが全然汚れが取れなかった、高圧洗浄機強すぎたと思った、でも一台しかなかったやはり高いので、手で洗うのがいいなと思う。その後牡蠣養殖場の庭の草刈りをした。その庭は震災時からそのままにしていたらしく、草木が生い茂っていました。そこを綺麗にして元の庭に近づけて行きました。帰りにもフェリーでカモメとたわむれながら帰っていきました。カモメには手で餌をやったりした。その後バスに乗ってホストファミリーの待つ八ッ瀬に向かいました。月立小学校旧校舎でホストファミリーの方と対面しました。初めはとても緊張していましたが、話してみるととても優しく、面白い方々でした。ホストファミリーの方の家はとても広く玄関すぐに食卓がありそこでご飯をいただいた、そこで僕が大好きなキュウリがいっぱいあってとても嬉しかったです、そしてめちゃくちゃみずみずしく美味しかったです。その後お風呂に入って、団欒をし、寝ました。

【1年竹内】
防災庁舎の高さは12mだったが、津波はそれを超える高さだったので、助かったのはその1番先に建っていた鉄塔につかまった人だけが助かった。また、人々を守るために行動をして犠牲になった人もいた。 町のほとんどはかさ上げをして高台に移転する予定で工事をしているが、7年経ってもなかなか進まない状況にある。 そのため、町の中枢機能のほとんどが山側へ移動している。 工事のため、一般車が少なく、工事車両が多く走っている気がした。 ・気仙沼市
 気仙沼市は、現在、道路の整備が行われていて、高速道路はまだ繋がっていない状態である。 また、町村合併で誕生した町なので、土地が広大で、そのため市全体としての復興を果たしきれていない状態である。震災当時から手付かずのままの橋が残されている。これは負の遺産として残していって欲しいと思います。
・大島(山越え)
 自然が残る山には、所々不自然に緑がないところがある。これは、津波によって流された跡である。ここまで津波が来たという標識もあり、それは、高台だったが、 成人男性がすっぽりと埋まるほどの高さだった。また、山火事によって木が生えていなかったところもあった。
・(牡蠣養殖場見学)
 船で海へ出ると、大きないかだがいくつも浮かび、牡蠣の養殖場が見えた。 1年ものの牡蠣はまだ小さく、周りにはクラゲやムール貝が付いている。 2年ものになると、養殖用の原盤が巨大化し、ムール貝にうもれて牡蠣は見にくい。そして、周りに付いた昆布やムール貝を払いおとすらしい。また、牡蠣用の籠も洗浄した。 草刈りをして、八ツ瀬の民泊に泊まった。 地元の食材は新鮮で美味しかった。

【2年野々山】
今日は三陸海岸に行った。最初に見えたのは半分だけが木が切り取られた山であった。見ると、新しそうなのに、人があまりおらずひっそりとした空気を感じた。それにとても違和感を感じた。窓からは鉄道の残骸や防災庁舎の鉄筋が見え、子供の土遊びのような盛り土があちこちに高く積もってあった。周囲には病院や市役所、銀行などの生活感あるものは見当たらず、何もなかった。主要の建物は高台のところに作られたそうだ。時々ある「津波の浸水深」の看板は、津波の恐ろしさを淡々と物語っていた。 小松さんの漁船に乗って牡蠣の養殖を見に行った。牡蠣には沢山のワカメやウール貝やクラゲが引っ付いていた。それらは、牡蠣の餌であるプランクトンを食べてしまう。それを防ぐために75度のお湯に10秒間つけて駆除するそうだ。しかし、その駆除に船を四隻使っても朝4時から昼の12時までかかるそうです。漁師さんの大変さや重労働であることを再確認した瞬間でした。 また、小松さんの話によると大地震の前にチリ地震があり、津波で牡蠣の筏が全て流れてしまったそうだ。だが、国からの補助金はもらえず、自分のお金をやりくりしてもう一度牡蠣の設備を作り直した。それもつかの間であり、すぐ東北地方太平洋沖地震が起きてまた、流れてしまったそうだ。そして7年経った今やっと軌道に乗り始めたと遠くを見ながら話していた。この時、私は東北にきて始めて大災害がこの街を襲い、今も爪痕が残っていることを感じた。この人たちは7年前被災者ではなく、私たちと同じように毎日を過ごしていたのだと。そして、いつ起こるかわからない自然の驚異を感じた。 そんな時我々を救ったのは人と人との繋がり助け合いだと話していた。まさに、その通りだと思う。何もなくなってしまった時残るのは人だろう。人の心がみんなを救うことになる。だから、私も人を救えるようなそんな人格者になりたい。そして、このだいしんさいを忘れずに後世に伝え、次の大震災を防ぐ行動を呼びかけたい。

【2年野ア】
東北に来てまず思ったのが、震災の爪痕がまだ残っているということです。道路はきちんと整備してあっても至るところでクレーン車が盛り土を運んでいたり、電車の線路の間が抜け落ちたままの状態だったりしました。震災から約7年が経過して防災支援住宅が作られたり、車が走っていたりと復興が進んでいるように感じた半面、まだ更地のところも多く、震災の被害の大きさを感じました。また、所々にあった津波の高さ表示を見て、改めてその高さに驚きました。どこも自分の身長より高く、実際にその高さの津波が来たのだと思うと恐ろしくなり、同時にもし自分がその状況に陥った時のために防災に備えておくことの大切さを身にしみて感じました。 そして、 東北放送の方からお聞きした話から、支援の方法は様々である、ということを学びました。それまで私は、「支援=ボランティア」と思っていましたが、それだけでなく、たとえ被災地に行けなくても現地の方を想うことも大切なのだという事を知りました。だからこそ、災害に遭ったことのない人に被災地に対して無関心になってほしくないと思いました。

【2年川本】
気仙沼に入りました。一年前と違い、商店街にはお店が増え活気があるように感じます。また、復興住宅もできていましたが、地盤が安定していないのではという懸念や入居費用が高いという理由から空室が多いとのことです。牡蠣の養殖の筏もチリ地震の時は政府からの補助が全くなく、へそくりをはたいたというお話を聞きました。地震大国である日本において、日本政府はお金の使い方を考え直すべきなのではないかと思いました。 次に大島に着きました。大島は毎日新聞社を訪れたときに燃える大島を見たことで森を歩くときもその当時の様子を想像しながら歩きました。牡蠣の養殖所では、震災によってまっさらな状態になったところにボランティアの方が来てくださってここまで復興できたとおっしゃっていました。その中には、私たちが今回参加しているプロジェクトの先輩方も含まれています。改めて、このプロジェクトを続けて行くことの重要性を感じました。また、忘れられることが一番怖いともおっしゃっていました。それを聞いて、私たちが被災地を訪れたことと、この一年間震災について発信し続けたことはちゃんと意味があったのだ、無駄なことじゃなかったのだと思いました。いつか大島に訪れる機会があれば、必ずヤマヤ水産を訪れようと思いました。 また、震災とは悪いものとばかり思いがちですが、震災以前は交通の弁が良くなかった気仙沼が、震災以降に道路の整備が進みかなり交通の弁が良くなったという事例があります。また、大島の橋も住民の方が50年以上願ってやっと建設されたということで、震災のおかげというのは変ですが震災は悪いことばかりではなかったのかもしれません。しかし、今はなにもないまっさらな土地に当時は役場があり病院があり体育館などがあったということを忘れてはなりません。今回のテーマは想像するということで、坂口さんや現地の方の話を聞いて想像することにより、改めてその重要性を感じました。明日からも、想像することを大事にしていきたいと思います。

【2年矢田】
1日目は、大島の小松さんの牡蠣の養殖場にお邪魔ささせていただきました。そこにいく道中では、新しい建物がかなり増えていることに気づきました。 フェリーの乗り場の港や新しい住宅ができていました。復興作業が進んでいることを実感できました。しかし、震災から7年経ってやっと建物がまばらにできてきていないということです。私が小学校四年生から高校二年生になる間にやっと建物を建てはじめている。震災からの復興にはかなりの時間がかかるということを理解しました。また、まだ蝉の鳴き声が聞こえないことも、ここが被災地であるということを表していました。私は東北に来る前に友人に、「まだ東北に行くの?まだ大変なの?九州に行った方がいいんじゃないの?」と言われました。この言葉には納得できるところもありますが、東北が復興しているという考えは間違っています。それに、「忘れられるのが一番怖い。」と言った被災者の方もいるように、震災は次第に忘れられがちです。しかし、ここで今すぐボランティアが必要な九州に皆が行くと、前の災害である東日本大震災のことを意識から外してしまうでしょう。そうすると被災者の方が言ったように皆が東日本大震災のことを忘れてしまう、ということになりかねません。だから、今こそ行くべきだと思いました。2日目の活動で学んだ一番のことは、自分たちは震災の記憶を失わせないために今被災地を訪れている、ということです。

【2年上原】
活動初日、まずはバスの中から南三陸、気仙沼を見て回りました。昨年に比べて盛り土が多くなったように感じました。そして坂口さん、小松さん、東北放送の方々のお話を聞きました。来るたびに道が変わって、商店などはそのたびに移転していることや、来年には道路と橋が開通すること、昨年中に防災支援住宅の建設がすべて終わったことを知りました。確かに昨年にお店があったのが移動していたり、昨年はなかった建物があったりして驚きました。私は一年の間をあけてここに来たのでかなり大きい変化に見えましたが、現地の人はじわじわと変わってきているとおっしゃっていました。見ている視点によって感じ方も違うことを改めて考えました。他にも現在の西日本豪雨にも共通する話で「行方不明が一番苦しい。どこかにいることを信じてまだ海に潜って探している人もいる」ということを聞いて災害時に安否を伝えることの重要性を再確認しました。そして今日、私の中で最も心に残っているのは「忘れられるのが一番怖い」という言葉です。頭の片隅で少しでも気にかけていれば、人同士のつながりは消えない。私は昨年からのプロジェクト等を通して人のつながりの大切さについて考えることが多くなっていたので、今後テレビなどで気仙沼のことをみたときは今回のことを思い出せるようにして、少しでも長くこのプロジェクトで築いた人間関係を続けさせることができるようにしたいと思いました。