大阪府立春日丘高等学校  
 
 
             

 

東北被災地訪問プログラム 現地速報

第3日目

リアス・アーク美術館にて

 学芸員の方に、当時のお話を伺いました。 地震や津波、そのほか様々な災害は、自分とは関係ないことではなく、これからも身近なことなのだと。 町全体が被害を受け、ご自身の住んでおられた鉄筋コンクリート4階建ての自宅が、津波で跡形もなく なくなっていたそうです。「がれきとよく言われるが、がれきではない」自宅であり、知人や家族なのだと。
 展示の写真は、学芸員の方による、なぜそこで写真を撮ったのかという文章とともに、並べられていました。 生徒たちも釘付けになって、展示を見ていました。また、生活物や、自宅の一部などが展示されていました。 ここに住む人たちが記録した写真と文章は、テレビや雑誌、新聞の写真や映像で見て、記憶に残ったものとはまったく違うものでした。 やはり、現地に来て、触れることが大切だと、痛感しました。

午後は岩井崎近くの階上地区で植樹作業

津波によって木々や建物だけでなく、豊かな土壌も失われました。粘土質の土地だけが残り、農業にも大きな被害を与えました。 この地域では、明治時代の津波被害を教訓に大きな木々を育て、森を作ってきましたが、この時の大きな木によって、救われた命も あったそうです。そのため、もう一度森を作るための活動をしている地域で、植樹と草抜き、花を植える活動を行いました。

気仙沼の被害を目の当たりにして
街の様子ですが、多くの場所で、9m近い盛り土がされていて、ようやく町の復興が始まったと感があります。 毎年訪問していますが、来るたびに道路の位置も変わり、風景が変わっていっています。

18:30 本日すべての予定を終了しました。月立小学校にホストファミリーのみなさんが、出迎えてくださり、 各家庭に送っていただきました。
こちらでのお心づくしを堪能していることでしょう。

           
  学芸員の方からお話を伺う   展示資料・文章を読む   ジューンベリーを植樹    
           
    少し掘ると粘土質です   シンボルとなる大きな木   花を植えるために草を抜きます    
           
    樹の周りに花を植えます   みんなで植えました   防潮堤を建設中。周囲はまだまだ未整備    
           
    この木につかまって命が救われた人も   被害を受けたままの公衆トイレ   引き波で90度倒れた建物    


生徒たちより
【3年油谷】
活動2日目は、リアスアーク博物館の見学から始まりました。この博物館は去年も見学しましたが、今年は前回よりも時間がたくさんあり、よりしっかりと見ることが出来ました。学芸員の山内さんのお話や、展示されている被災物から、ここまで被害が大きくなってしまった要因の内の1つや、被害の大きさ、悲惨さについて改めて考えさせられました。気仙沼などの被害の大きかった地域は「40年に一度、津波が起こる」と言われていましたが、1960年に発生したチリ地震による津波から、大きな津波が発生しておらず、人々が埋立地などの地域発展を進めてしまったことも、被害が大きくなった要因の1つとして考えられていると聞き、また展示物には、「これより先、津波浸水想定区域」と書かれている看板が津波の被害などで折れ曲がってしまっているものもあったことから、地元の人々の想像を超えた規模の津波が訪れたことがわかりました。私が特に衝撃を受けたのは、学校や家など、子供たちに関わる写真です。高校生の私が写真を見るだけでも辛いと感じることを、当時の小学生や、中学生がその重圧や恐怖に襲われていたと思うととても悲しくなりました。そんな中、絶望している大人達を見ながら立ち上がろうとしている子供たちのお話を聞いたり、写真を見て、私達高校生に出来ることは何なのか、真剣に考え直させられました。 午後からは海辺の森をつくろう会さんに、植樹活動のお手伝いをさせて頂きました。木に捕まることで津波の被害から逃れた方がたくさんいらっしゃったということと、昔のような緑のある景色を取り戻すために植林をしました。津波の被害によって海からの風を遮ることができないため、塩害に悩まされているというお話を聞いて、想像以上にたくさんの時間がかかることを知り驚きましたが、私達の次の世代やその次の世代が私たちの植えた木で助かってくれるのであれば、必要な活動になると思いました。また、植林活動のお手伝いが終わると、甚大な津波被害を受けた岩井崎の見学に向かいました。昨年よりも、道などの整備や、避難塔が完成している中でも、当時のままになった海水浴場の公衆トイレや、発電所がひっくり返ったものが水門に引っかかったりした地域遺構も見ることが出来ました。復興の進み具合のズレを感じることが出来ました。また、地域遺構の真横では防潮堤が建設されていたり、海水浴場で遊んでいる人達を見て、少しづつかも知れませんが、復興は確実に進んでいると感じることが出来ました。徐々に繋がっていく防潮堤を見ると、防潮堤を作ることは海の様子が見えなくなることに繋がり、波の様子が見ることが出来ないのは怖い、というお話を昨年聞いたことを思い出しました。 今日の活動では、当時の被害について、お話はもちろん、写真や被災物、遺構などを見ることが出来ました。この経験をただ、「怖い」という感情だけにせず、このような被害が起こらないために、自分たちがすべきことは何なのか、考えていきたいと思います。

【2年野々山】
リアス・アーク美術館に行った。そこにあったのは生々しく映る写真や被災物であった。(ここで少し被災物の説明をしたいと思う。流れ付いた家具やビニールや家の破片は全て思い出の詰まったものである。瓦礫とは瓦やつまらない物という意味がある。だから"瓦礫"と使うのは失礼であるからこれらのことを被災物と呼ぶ。) そこで一枚の写真と出会った。 色々な被災物が堆積して街の姿は綺麗さっぱり消え去っていた。流れてきたものはまるでずっと前からあったような存在感を醸し出していた。人が1人そのにぽつんとたちどまっていた。ただただ茫然としていた。津波は高さ20m、時速40km?50kmで襲ってきた。この自然の驚異に勝てるものはなかったのだろう。虚無感が心に広がった。 奥へ進むと茶褐色のパンパンに膨らんだドラム缶を見つけた。これが流れてきて、バンと大きな音を出して次々と家に燃え移り、一面が火の海となったそうだ。誰がこんな事を想像し得ただろうか。家が静々と火で燃やされていくのをただ見つめることしかできない。 生き地獄のような感覚であったであろう。それを思うといかに人が作り上げてきたものは脆く弱く、科学技術が危険であるかがわかった。 次はピンクのデジカメが展示されていた。何故デジカメが置いてあり、拾ってきたのか疑問に思い、近づいていった。すると横のメモには、壮絶なストーリーが書かれていた。メモには「巨大な大地震の写真を収めようと帰った娘がそのまま戻らぬ人になってしまった。」と書かれていた。痛々しかった。現実はこんなにも厳しいのか。フィクションではなかったのか。思いを巡らせるうちに自然と涙がこぼれおちた。 最初、正直災害を経験したことがない私にとってはどの写真も板の積み重ねが沢山あるだけのようにしか感じなかった。もちろん、その中で大変だなと思う部分はあれど どうしても客観的なしか取れなかった。しかし、この1枚の写真と2つの被災物は私に大きな変化をもたらし、大地震の恐怖を肌身で感じることができた。 大地震は偶然に起きるのではない。全て必然的に生まれるのである。生きるか死ぬかは自分で変えていくのだ。この意識を持ってこれからの人生を生きていきたい

【2年】和田
リアスアーク美術館では、去年より多く時間があり、じっくり見ることができました。この見学を通し、次来るかもしれない津波および災害においての対抗策として、私たちが今すべきことを考え直さないといけないなと思いました。津波から人を守るものといえば地面のかさ上げ、防波堤作りなどのインフラ整備というイメージが大きいですが、本当にそれが人を守るのに最大限に効果を発揮するものなのでしょうか。 「この三陸では、40年ごとぐらいに津波が起こる。その度に、家を直し防波堤を作ったりしているが、すぐに津波が来て人が流されるなど被害にあってしまう。」 展示員の山内さんはおっしゃられました。この地には、高い頻度で津波が来ている。その度に被害を受けて、それなのに、いざ地震が起こった時にその時の教訓を生かせない。7年前の大震災の時も、「防波堤があるので安全だから」と人間たちの科学技術に慢心しきっていたのです。 ショベルカーで土を盛って、建物を元に戻す。それが私はそれがまさに復興だと思っていたし、実際にそれは大規模に行われています。しかし、それは未来永劫続く復興なのでしょうか。元どおりに戻った街で、もう一度一回り大きな大津波が来たとして、また街ごと流されてしまうことがあったら、「土地も高くなって安心していたのに、こんなことになるなんて思わなかった」と、人々は大きな落胆に襲われるでしょう。 「自然災害には、決して人間は勝てない」それを知った上で、どうやって自然と暮らしていくか。かといって自然の猛威の前に屈することのないよう、私たちがいつでも起こり得る災害に対応できるよう、何を準備すべきか。それを過去のことから学ばないといけません。そう考えた時、被災地に本当に必要なものとはなんでしょうか。避難時間を1分1秒でも伸ばす堤防も然り、津波が起きたという過去や悲惨さを伝えていく防災教育をするための施設、それを作るためのお金や制度など、他にも力を注ぐべきところをもう一度見つめなおして見るべきだと思いました。 午後からは植林活動をしました。津波に流された時、大きな木に捕まって助かった、という事例もあるように、木の強さは、自然の猛威に対抗し得ます。人間たちが自然を守ることで、津波が起こった時に木という自然に助けられる、これも自然との共存の形なのだろうなと感じました。

【1年竹内】
リアスアーク美術館は 東日本大震災の資料が多く展示されている。「被災物」として震災当時のものがそのまま残されていた。大きなものだと家の一部やひしゃげた自動車、小さいものだとぬいぐるみやゲーム機、ドアノブなどがあった。そのどれもに共通することは、泥をかぶっていること。津波でたまたま流されなかったものや、金属でできていたので、沈んだものが多い。そのどれもが以前そのものを所有していた人たちの思い出を、背負っているので、それらをなくした人たちの後悔が大きくなった。 震災直後の写真から復旧への道筋を写真で解説されていて、改めて津波や、火災による恐ろしさを感じる。ただ、震災が起こった後で一番怖いのは人々が震災の記憶を忘れてしまうことだそう。確かにそうだと納得できた。 植樹活動を行った海辺の森では、大津波の時に、木につかまることで生き延びた人たちがいたことから、海辺に植樹をする計画があり、それに参加させてもらった。 木を植えるには、支柱を立てておくのが必要。そして木にはそれぞれ共生する微生物がいて、それらを撒かないと、植え始めの土では、木が育たないそう。また、植える土壌が粘土質のところだと、水が溜まって根が腐りやすくなるらしい。 海岸では、大津波が届いたところで津波の話を聞いた。津波はリアス海岸の構造上、 波が割れて津波の勢いが増したため、約20mの水が来たそう、それは大体電柱3本 分の高さで、想像がつかないほどだった。 海岸には数少ない災害遺構として防潮堤が残されていて、1目見ただけでは分からないが津波の引き波で根元から90度傾いていて信じられない光景だった。 また、新たに防潮堤の設置が進んでいる。

【1年井上】
7月15日今日朝5時00分に起床ちょっと早かった。ここの朝はとてもすずしく過ごしやすかった。家の近くにあるビニールハウスのキュウリなどみた、そこでトラバサミにきずかず引っかかりそうになった。5時30分に朝ごはんのお手伝いをした。目玉焼きやベーコン焼きを作った。野菜はみずみずしくて美味しかった。その後団欒を楽しみ出発した。その後リアス・アーク美術館に訪れた。ここでは震災後すぐの写真などや当時の壊れたものなどが置いてあった。それらからは震災の悲惨さを肌で感じることができた。また写真から津波と地震が全てを破壊して持っていく恐怖が感じられた。たった今まで人が暮らしていた痕跡が残っていたりした、地震や津波はそのまま人をさらっていくように思えた、瓦礫の中に残る綺麗な部屋などをみると違和感などを感じた、ここで生活していた人が流されたと思うととても怖くなった。その後他の美術的展示物を見たあと、バスで植樹場へ移動、植樹場で昼食をとった。その後ジャンベリーを植えた植え方は等間隔で支柱たて穴を掘って埋めて肥料かけて完成です。他には花壇に花を植えたりした。綺麗に見せるのが困難だった、数学よりも感覚で間隔を合わせるほうがよさそうだった。そこから近くの海岸へ行き津波の被害などの話を聞いた。初めは14メートルほどと予想されていたが実際は25メートルほど上がったらしかった。そして海岸線に到着し、90度傾き倒れた水門を見た、無残にも鉄筋コンクリートの柱も折れて倒れているところを見ると、改めて津波の大きさを感じることができた。その帰り道に大きな畑を通った全然被災した感じはしなかったが、奥を見るとまだやはり瓦礫は残っていた。その後宿舎に戻ってきて、畑やビニールハウス、ニワトリなどを見た。家に入るとトウモロコシが用意してあって食べると、とても甘くめちゃくちゃ美味しかった。今までトウモロコシは苦手だったがこれを機に少し好きになった。宮城県産のホヤを自分でさばくことができた、大阪に出回っているものの2倍くらいあり貴重な経験だったと思う。そして食事の時間になりメニューはカツオの刺身ホヤの刺身唐揚げ、サラダ、キュウリのしいチキンあえ、茄子ピーマン、などの色とりどりのメニューでした。ホヤとカツオは名産らしくとても美味しかったです。そのあとお風呂に入って寝ました。

【2年川本】
東日本大震災の被害は全くの想定外ではありませんでした。つまりは想定内だったのです。想定内であったことの1つに約15mの津波がくることが予想されていだことがあります。それでも人々はそんなわけないだろうと信じませんでした。過信は被害を拡大します。私たちには、津波てんでんこという言葉から分かる通り、子孫に同じ過ちを繰り返させないという責任があります。しかし、リアスアーク美術館の東日本大震災の展示に被災した学校が訪れたことは一度しかないそうです。それは学生たちへの配慮があるからこその結果ですが、学生の間に深く知る機会がなければ、そのまま地元を出てしまい一度も東日本大震災と向き合う機会がなくなってしまうことになります。また、震災遺構についてもそうです。被災者の方々への配慮から震災遺構として残さずに壊してしまうこともあります。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。震災について子孫に伝えていくためには震災遺構を残す決断も必要だと私は考えます。そのような現状がある一方で、震災から学べることもあります。その1つとして防潮堤という観点から東日本大震災を見たとき、比較的被害が少なかった宮城県の松島があります。松島は島がいくつも点在していたため波の流れる方向が複雑になりお互いに相殺され、波の勢いが弱まることで被害が少なくすんだそうです。そこで考えられた津波対策に、防潮堤を築くのではなく島の代わりになるポールをいくつか立てることで被害を少なくできるのではないかという考えのもと、実際に和歌山県や気仙沼内湾地区防潮堤などではこの考えが採用されているそうですが、実績がないという理由から採用されないところがほとんどだそうです。しかし、その判断は正しいのでしょうか。住民の方の声を無視しているのではないでしょうか。復興とは一度衰えたものを盛んにするということです。人々に笑顔が戻ってやっと復興したと言えるのではないでしょうか。復興工事と呼ばれますが、果たして本当に復興工事なのか、人々の笑顔で過ごすことができる町になっているのか疑問が浮かびます。

【3年高木】
昨晩からはそれまでの疲労もあり、ぐっすり眠ることができ、気仙沼の朝の温度は大阪とは大きく異なり肌寒いくらいで、気持ち良い朝を迎えることができました。朝食を頂き、月立小学校に集まってからリアス・アーク美術館へ向かいました。美術館では震災による被災物や写真、新聞記事など多くが展示されており、1つ1つのものに対してコメントが添えられています。写真などは新聞やテレビで多くみたことがありましたが、被害を受けた場所で見つけられた被災物(ここではガレキと言わない)を見るのは初めてで、いかに大きな災害だったのかということを物語っていました。それぞれに添えられているコメントはとても印象的です。まず、常設展示場の入り口には「反省とは未来を考えること」と書いてありました。学芸員の内山さんは、三陸沖では約40年に1度津波による被害があり、この展示品の数々は「忘れないため」ではなく「覚えておくため」のもので、次の約40年後にこのような大きさの災害にならないようにという意味が込められていると話されていました。他にも、歴史や地域史の面から考えてこの大震災は「未曾有」という言葉で表現するのは適切ではなく、正しくは「過去最大」だということ、雪国では雪抜きにした生活が考えられないのと同様に三陸沖では津波抜きにした生活が考えられないのであり、日本では地震抜きにした生活が考えられないということ、常に明日は我が身だと思って生活することを忘れてはならないということなどが書かれていました。また、被災物の中には15時33分に止まった時計があり、地震だけでなく津波の大きさを感じることができたり、津波に乗って来た炎によって燃え、グチャグチャになった鉄筋などがありました。津波というものは自然災害ではなく昔からある1つの自然現象です。それに対して自分たちがどう対応していくのかを自分たちの地域史や過去の被害などを調べ、考え、伝えていきたいと思います。そして昼からは植林活動を行いました。多くの木を植えたり草抜きを行なった後には海岸の方へ向かい防災公園にも行きました。防災公園では津波の引き潮による被害の話や1本の欅に捕まって数人が助かった話などを聞き、その中でも「津波てんでんこ」という言葉は印象に残っています。「津波てんでんこ」とは津波からの避難に関する標語で「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」という意味が込められています。地震後は少し有名になりましたがまだまだしらない人も多いと思います。この言葉のこともしっかりと他の人に伝えて行きたいと思いました。沿岸部の地域での植林や農業は海から吹く潮風による塩害があるということで、このような被害が少なくなってほしいなと思います。最後はホームステイの方の家に戻り、晩御飯ではホヤを初めて食べました。明日で現地での活動は最後になります。最後まで様々なことを吸収していきたいと思います。

【2年八島】 今日はリアスアーク美術館へ行き、その後植樹活動をしました。 リアスアーク美術館では被災物の見学や山口さんのお話しを聞いたりしました。昨年度の本プロジェクトにも参加していたため美術館を訪れるのは2回目でした。1回目は感情が昂ぶってしまい、泣いてしまったのであまり集中して添えてある文章を読むことができませんでしたが、今回は落ち着いて見学をすることができたように思います。今回の見学で一番印象的だった言葉は「復興支援観光」です。復興支援観光とは、被災した街の再生の過程を見にその地へ足を運ぶことを観光とすることです。私たち東北プロジェクト参加者はそのような点でも復興に貢献できているのではないかと思いました。 リアスアーク美術館へ行った後は植樹活動を行いに、岩井崎へバスで移動しました。植樹活動をする前にみんなでお弁当を食べている時に四つ葉クローバーを見つけたので、ホストファミリーのお父さんとお母さんに持ち帰りました。その四つ葉のクローバーを受け取ったお父さんとお母さんがとても喜んでくれたので私はとても幸せな気持ちになりました。植樹活動ではジュンベリーの木を植えました。その後、春日丘の参加者で雑草を抜いてマリーゴールドを植え、花壇を作りました。 植樹活動を終え、10人もの人を助けたケヤキの木を見に行きました。歩いている時に舗道された道路が増えていることにとても驚き、そして嬉しく思いました。 【2年野崎】
私は、津波の被害というと大量の水が襲ってきて建物が流される、というイメージが強かったのですが、写真や展示を見て、そんな簡単なことじゃない、ということを知りました。水の勢いで線路が螺旋状になっていたり、流された被災物が他の家や建物にぶつかってまた新しい被害をもたらしていたりと「まさかこんなことになるなんて」と思わされるものばかりでした。また、地震後に電話をして話している間に津波が襲ってきて流された、というお話を読んだとき、次に起こる被害を想定して行動することの大切さを改めて考えさせられました。これは、津波の来やすい海岸沿いの地域に限ったことではないと思います。大地震が起これば火事が起こるかもしれないし、地下水が吹き出てくる可能性だってあります。だからこそ、災害時は「想定する」「想像する」ことが大切なのだと知りました。 そして、植林活動の方から木に捕まって助かった人のお話をお聞きした時、コンクリートでできた大きな水門より、木の方が津波に負けなかったことに驚愕しました。そして、やはり人間の技術では大災害に遭ったときひとたまりもないのだと痛感させられました。今まで津波が◯m来ただの◯m浸水しただのそんな話を何度かニュースで見たことがありましたが、あまり現実感がありませんでした。しかし、岩井崎の電柱が7mで津波の高さが20mだと知ったとき、電柱を基準にして約3倍の津波が来たことを想像すると、あまりの高さに現実とは思えませんでした。だから、シミュレーションで14mの津波が来るとされていて誰も信じなかった、というお話に納得しました。きっと私もそんなことを言われてもすぐには信じないと思いますし、信じたくないという気持ちが先行してしまうと思います。私はそのお話を聞いて、災害時に自分がどう判断すべきか、どう行動すべきか考えることができました。

【2年上原】
活動二日目、まずはリアスアーク美術館に行きました。お話を聞かせていただいた学芸員の方は「この美術館は物自体を見るためではなく、その背景にあるものを見るための博物館です。何のために何を伝えようとしているのか、そこから何を学ぶべきなのかを考えてみてほしい。」とおっしゃっていたので、二回目である今回はそれを意識して被災物を見ました。 入って最初に見える写真を見ているときに説明されたのは東日本大震災の少し前にあったチリ地震による津波での被害が2階まで届かなかったため大丈夫だと思って逃げなかった人が津波に流されたということでした。科学技術で自然をコントロールできる、自然の脅威に勝てると思い込んだ人間が今回の震災で特に被害者になっているため経験があるからと言って災害への心構えは万全でないと聞いて、自然の偉大さを考えながら人間がどうやって自然と歩めるよう意識を持てるのかが重要になると思いました。また自分が想像していなかったことはいつでも起こりうるということから、これから新しい建物を作るときや新しい土地に引っ越すときには自分の想像の範囲をさらに超えるものにも対応できるようにして、対策を考えていくのが大切だと感じました。その他にも被災物には特別な物だけではなく日用品が多くありました。昨年にも学びましたが、災害はついさっきまで当たり前だったことを奪っていく、日常があることはとても幸せということを改めて学びなおしました。失って初めて気づくことも多いので当たり前のことに対して改めて感謝しました。リアスアーク美術館では過去に学び未来につなげていく、これからの未来を引っ張っていく私たちに最も必要なことを心に刻みつけました。そして現在聞き手の私たちが語り手となるとき、過去の歴史を固定的な観点で伝えるのではなく新しい世代の人にも多様な解釈ができるように情報や経験を伝えていこうと思います。

【2年矢田】
3日目はリアスアーク美術館と岩井崎に行きました。そこで学芸員さんの山内さんに言われた「大阪地震に対する反応が無さすぎる」という言葉が一番衝撃的でした。確かに、ついこの間に自分の身に起こったことなのにあまり意識していなかったからです。山内さんはこうも言っていました。大阪地震も九州の豪雨もおかしい。人の勝手な営みによって災害になってしまったんだ」と。私は改めて自分がいかに自然の力を侮っているかに気づきました。昨年に東北を訪れて少しは分かっていたはずなのにです。それに、展示されている文章を読むと、津波がくることはわかっていたはずなのになぜここまで被害が出てしまったのか、という後悔を感じさせる文章が多くありました。やはり、大きな災害を自身で体験するまでは危機感が湧かないということを知りました。それは今の私も同じで、たかが電車や水道やガスが止まる程度の地震だと思って安心してしまっています。九州の豪雨は他人事だと思ってしまっています。まさか自分のいつもの生活が壊れるなどとは思わず、安心しています。それが自然現象を災害にしてしまっているのです。それに気づいた私は自分がどう生きるべきか考えなくてはならないと痛感しました。 見学後の植林活動では、過去の事実を受け止め、難しい活動を続ける大切さを知りました。 岩井崎の見学では、実際に被災した建物の遺構を見ることが出来ました。昨年の高田松原の遺構と同じで、最も恐怖を感じやすく現実味のあるものでした。まさに今まで自分に都合よくイメージしていた東日本大震災の現実を叩きつけられたような。それは私の想像をはるかに超えるほど津波の力を表していて、自分がいかに震災当時のことを甘く考えていたのかを思い出させられ、同時に恐怖を覚えました。 自分がこれからどう生きるべきかという問題に対する今日を通しての考えは、自然の力を甘く見ずちゃんとできる限りの対策を個人で打っておくということです。しかし、これは普段から言われていることであり、出来ているはずのことであるのも確かです。それに皆が気付いて行動できれば、災害は減るはずです。