府工歴史ギャラリー

[66] 戦前の校歌はかなり軍国調だった(2)

《戦前の校歌》

百舌鳥(もず)のみささぎ
松かぜ清(さや)に
雪とかがよふ
白亜(はくあ)の校舎
御稜威(みいつ)の光
さしそふ窓に
真理(まこと)の道を
究(きわ)めんわれら

茅渟(ちぬ)の新潮(にいしほ)
とどろく磯に
鐵(てつ)とゆるがぬ
錬武(れんぶ)の学徒
興亜(こうあ)の力
わき出る場(には)に
工(たくみ)の業(わざ)を
鍛(きた)へんわれら
《戦後の校歌》

百舌鳥(もず)の耳原
松かぜ清(さや)に
雪とかがよふ
白亜(はくあ)の校舎
時代の光
さしそふ窓に
真理(まこと)の道を
究(きわ)めんわれら

茅渟(ちぬ)の新潮(にいしほ)
高鳴る磯に
若き希望の
自由の学徒
世紀の粋(すい)を
あつむる場(には)に
工(たくみ)の業(わざ)を
つくさんわれら
※みささぎ=陵。天皇の墓。              ※御稜威(みいつ)=天皇の威光、権力。
※茅渟(ちぬ)=和泉の海岸地域の古い呼び方。 ※錬武(れんぶ)=武術をきたえること。

※興亜(こうあ)=当時日本は、戦争の目的として、東南アジア地域を欧米の支配から解放、
           各民族が「共存共栄」する「大東亜共栄圏(だいとうあきょうえいけん)」を建
           設するとしたが、実態は日本のアジア支配を目指したものであった。
            「興亜」=「アジアを興す(おこす)」は、そういう背景の中でよく使われた
           言葉である。

※写真は昭和30年代の体育祭。戦前の体育大会と比べて、生徒の表情、服装が異なって
  いることが分かる。             
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