「ファンタジックでありたい」を書いてみて

 こんにちは、緑風冠高校演劇部です。今回も地区コンクールの脚本についてのお話をさせてください。

 今回地区コンクールで上演した脚本「ファンタジックでありたい」は、もともと地区コンクールに向けて創作をしたものではなく、ただ純粋に脚本創作をしてみたいという気持ちから作り上げたものでした。審査員の先生による講評でもその部分について指摘され、大変勉強になりました。

 それはそれとして、では、どのような思いでこの脚本を書いたのか、自分で振り返る意味合いもこめて文章にしてみました。随分と長くまた読みづらい文章で恐縮ですが、前回の公開された脚本とあわせてご覧いただければと思っています。また、skaldrink@gmail.comまでご意見ご感想いただければ、本当にうれしく思います。よろしくお願いします。



『ファンタジックでありたい』は、古い、とても単純な物語です。

他者との会話に絶望して、ネットという世界でなら他者と繋がれるという希望を見出した女子がいて。その子をなんとかしてその価値観から引きずり出そうとする、それだけの話です。

そもそも、ネットに対してそのような幻想を抱くこと自体もう時代遅れだな、という実感があります。自分が日々同じ時間を共有する高校生たちを眺めていると、生まれた時からインターネットが普及していた彼ら彼女らの世代はネットを現実の延長線上として、実に巧みにつかいこなしているのです。そのバランスはちょっとしたきっかけで壊れてしまう脆いものではあるのだけど。

それもそのはずで、『ファンタジックでありたい』の原案(といえるほどでもない思いつきレベルのもの、もしくは衝動)ができたのは10年くらい前なのです。さらに、その思いつきのための経験、つまりネットというコミュニケーションの可能性を感じたのは、自分が初めてそれに触れて夢中になっていた頃、中学~高校生くらいの頃なのです。そういった意味で、やはり一応、これは高校演劇向けの作品だと思っていますし、また同時にそうした高校生の頃から決別するための作品でもあると思っています。

もう一点、この作品を書くにあたって原動力となった衝動があります。高校演劇の中に、いわゆるSNS系と呼ばれるジャンル(といっていいのかわかりませんが)があります。前述したことと矛盾するのかもしれませんが、やはり高校生にとってネットコミュニケーションは切実でもあるらしく、様々な表現がなされており、優れた作品も生まれてきています。 

ただ個人的には、どうもその取扱いに満足いかないというか、見ててイライラする、表現欲求を高められる機会があまりに多い。それは何故なのだろうと考えた時、SNSを含むコミュニケーションを明確に否定も肯定もできない、このままではいけないのかもしれないけど手放すわけにもいかない、ネットという世界を手にしてしまった高校生を含む我々全員のそういった混乱しか、結局伝わってこないからではないかと思うのです。

だから、この作品を書き上げるにあたっては、本当にささやかだけれどもでも誠実な、なんとか自分にとって手を伸ばしうる、ネットとリアルとコミュニケーションと、やっていく方策を示したつもりでいます。それはもう、そんな中途半端な悲鳴のようなSNS系はうんざりだという怒りに近い感情でさえあるのです。そしてまた、そういったジャンルがあるとするならば、この作品は、そうした状況に一つの区切りをつけられる作品であれかしと思っています。

『ファンタジックでありたい』を作り上げていく過程であるいは評価の中で、こういった作品を高校演劇で扱うべきなのか、あまりにも独善的な結論ではないかという声をいただくことがありました。本当にそれは自分の致命的に足りないところで伏してお詫びするしかないのですが、でも、その伏せた頭の中では、こんな風に思っていたりもします。

表現する世界を探求していく中で、身近なあるいは手軽な想像力による不幸比べとか、それに対する劇的な解決とか、根拠のない希望を歌い上げるとか、そういうことはしたくないしできないだろうなという決意と確信があります。それらに対する才能が決定的に欠如しているのは仕方ないのですが、それならそれでもう開き直って、現実に対する励ましにも癒しにもなってたまるかという気分なのです。ただ、理由なく存在している私たちの目の前に広がる世界は圧倒的に理不尽で、その理不尽さはもう、感動的で暖かだった劇場を出た瞬間真冬の風に曝された時の落差のように、暗くて重くて逃げられない、そんなどうしょうもなく絶望的なものらしい。ではせめて、自分なりにどうやってそれと向き合っていくかあるいはやりすごしていくか、その手段を、夢や幻想ではなく、自分にできる限り誠実な方法で探っていく、その記録みたいなものを残せればと思うのです。それが、何処かの誰かに届いて影響を与えられたらいいな、と恥ずかしいこともこっそり願いながら。

『ファンタジックでありたい』の根源となった衝動の中で苦しんでいた頃。自分にとって、いまだに表現する根拠となっている、第三舞台という劇団がありました。その表現はもう、親にも周囲にも社会にも絶望して、ただただファンタジックでありたいと願い続けていた自分にとって、もう一つ別の道を示してくれるような存在でした。多分第三舞台はそんな扱いをされることが嫌で仕方なかったのかもしれませんが、その存在はまだ、こうやってこんな駄文を書き連ねさせるほどに影響を与え続けています。その営みにはおそらくまだ意味があると、ロボット演劇を見ようがネット演劇を見ようが、信じているしあってほしいと願っているのです。

地区コンクールでの公演で、最後の場面。物語の中心人物である、現実に絶望して軽蔑している女の子を演じている生徒が、袖にいる自分に話しかけてきてくれました。最後に幕が閉まる直前、これから生きていく自分を語る場面で、手を伸ばすアドリブを入れて良いか、と。とっさの判断が出来ず、ただその瞬間にそういった提案をしてくれる気持ちと姿勢がとても嬉しくてOKしたのですが、今になってから、彼女の言葉にはまた違った意味を感じさせられます。

冷静に振り返ると、最後に手を伸ばすという表現は、自分としてはちょっと素直でかっこつけすぎで、思えばそれより前の場面でも自分は彼女に対し、そんなに素直に手を出すな、ぎりぎりまで悩んでためらって、出そうとする可能性を感じさせるくらいの動作にしてくれという演出をしたのですが、なかなかタイミングを計るのに苦戦しているようでした。それはただ技術的なことだけではなく、ひょっとしたら他者と手を握り合う可能性を、どれだけ信じているかの差なのかもしれません。手を伸ばすという発想すらなかった自分と、最後に自分から手を伸ばそうと考えられる彼女と。きっと自分だったらためらってしまって選択できないような表現を素直に思いつける強さは、きっと若さであり、価値なのだと思うのです。そして、自分はそのまぶしさを馬鹿にしながらでも羨ましがりながら、これからもきっと同じ空間で表現を続けていくし、続けていきたいと思っているのです。