余野城趾(城山高校内)



  体育館の下からグラウンドへの下り、その

出口のすぐ右にあるのがこの碑で、この学校

がなぜ「城山」高校という校名になったのか、

その由来を教えてくれます。その横にくわし

い説明もあります。

 ここは、「余野城」または「余野幣ノ木

(しでのき)城」といい、能勢氏の一族の余
      野山城守(やましろろのかみ)頼幸(よりゆき)が15世紀末に築いたものです。当時、

   能勢の地黄・野間の両城主と合わせて、「能勢の三惣領(そうりょう)」と呼ばれていた

   とのことです。

    16世紀後半(秀吉の時代)、山城守国綱(くにつな)は、有名なキリシタン大名の

   山右近と深く交わったものの、やがて対立し、天正十二(1584)年に右近と争って敗

   れ、国綱は自刃、城も焼亡したと伝えられています。

    この城の主と高山右近との関係については、少し違う説もあります。

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