平野屋方面 

◎平野屋会所と坐摩神社
 大東市の中心部は淀川水系の寝屋川と古大和川が合流し、西は上町台地に出口をはばまれた低湿地帯で深野池があったが、宝永元年(1704年)の大和川付替えにより、大規模な新田開発が行なわれた。このあたりは本願寺難波別院の手で開発され、工事完了後、平野屋又右衛門に譲られた(その後所有者は変わり、明治以後高松家に移る)。会所とは年貢の徴収と管理に当たる場所で、この会所は深野南新田を管理していた。現在も舟入場・千石倉が残る。東隣の坐摩神社は新田の開発に伴い、大阪市東区の坐摩神社を勧請したものと思われる。他に深野新田の会所があったが、現存せず大東高校の南西にかかる「会所橋」のみに名を残す。 



ホームに戻る  
[四条畷楠公神社方面]  [飯盛山方面]  [野崎観音周辺]  [鴻池新田方面]  [水郷御領方面]  [おまけ:資料館]