中国渡日生L・Hの作文

                      大阪府立門真高等学校 3年 L・H

 

 私の名前はL・H。18才。5年前、中国黒竜江省ハルピン市から日本に来た。

 私の祖母は、日本人だが十才ぐらいのとき、満蒙開拓団として家族で中国満州へ渡った。祖母の

母は、祖母が幼い頃に病気で亡くなっていたので、渡満したときは、祖母の父、祖母の兄弟、合わ

せて家族五人であった。

 終駅の頃、満州にソ連軍が進攻してくると、日本の関東軍は真っ先に逃げ、残された祖母たち開

拓団の人たちは、逃避行を余儀なくされた。多くの人が死んでしまった。祖母の父も、兄弟たちも

… 祖母の身内で生き残ったのは、祖母と一人の兄だけだった。二人は、初め一緒に同じ中国人の

養父母に預けられたが、しばらくすると、兄だけ他の中国人の人の所に預けられてしまった。その

兄との別れを思うと、祖母は今も心が割れそうに痛むという。

 祖母は、中国で育てられる間も、ずっと日本に帰ることを一心に夢見続けた。しかし、日中の国

交が断たれ、その夢は叶うべくもなかった。

 そして、中国人の男性と結婚。7人の子供たちに恵まれた。

 ようやく、日中国交回復。1980年から本格的に日本への帰国が進められるようになった。

 祖母は、中国残留孤児として、単身、念願の日本帰国を果たすことができた。中国人である祖父

は経済的な事情で中国に残ったが、祖母が帰国したその五年後、日本にやってくることができた。

そして、その後すぐ、長男である私の父が、単身日本へやってきた。一年間必死で働き、生活基盤

を作った後、私と母、妹、弟が、日本に来た。こうしてようやく、家族が一緒に暮らせることにな

ったのである。

 私の生まれた黒竜江省方正県は、稲作農業中心の、あまり豊かではない町である。私の家も稲作

農業で生計を立てていたが、松花江のすぐほとりに暮らしていたので、二、三年に一回は洪水にあ

った。だから、私の家も豊かではなかった。けれども、とても幸せだった。

 中国には、小学校6年の途中までいた。小学校は、朝7時30分ぐらいから授業が始まり、昼に

は1時間30分の休憩時間があった。昼休みには家に帰り、昼食をとり、学校に戻った。冬はとて

も寒い。マイナス30度にもなる。だから、冬休みは二ヵ月程もある。冬休みが始まると、毎日み

んなで雪だるまを作ったり、スケートをしたり、そり遊びをしたりした。そのうち、みんなが一番

楽しみにしているお正月がやってくる。春節祭だ。春節祭には花火があがり、獅子舞が舞い、中国

東北地方独特の踊りを踊る。水餃子をたくさん作り、いろいろなおいしい料理を食べる。

 あの頃の自分にもどれたらなあ… 何も考えず友達と遊んでいた、あの楽しい日々に…

 

 1995年4月、私は、母、弟、妹とともに、父や祖母のいる日本に来た。

 日本に来ることが決まって以来、私は、見知らぬ国日本のことを考えていた。「日本に行けば、

祖母や父に会える。祖母の国日本は、きっといい国に違いない。」と思っていた。しかし、日本行

きの飛行機の中、「友人たちともう会えない」という辛さで、涙がこぼれそうになった。家族のみ

んなが無口だった。

 飛行機を降りたとき、父が迎えに来てくれているのに気付いた。父は私に一言、「背、伸びたな。」

と言った。涙が、目の中でぐるぐるまわった。

 こうして、私の日本での生活が始まった。その時になって「日本語がわからない」ということの

大変さに初めて気づいた。

 日本で生活するためには、日本語が必要だ。そんなことはわかりきったことのはずなのに、実際

に生活するまで、本当の大変さに気付かなかった。手続きのため、役所や入国管理局に行ったり、

病院に行ったりするときは、いつも日本語ができる人に頼まなければならなかった。父は、人の世

話になるのは嫌いな人なのに、人に頼まなければならなかった。私は、絶対に日本語を話せるよう

になると決意して、近所の中学校に入った。

 学校に始めていく日、私は、緊張で心臓が飛び出そうだった。なぜなら全校生徒の前で、自己紹

介をしなければならなかったからだ。教頭先生から教えてもらった、当時の私には全く意味のわか

らなかった妙な言葉を、一文宇づつ声に出した。

 私のクラスの担任の先生は、何度か中国に行ったことがあったため、中国語を少し話せた。その

先生は、私に「毎日、中国語で日記を書いて見せなさい。」と言った。私はその日記に、悩んでい

ること、困っていることをいろいろ書いた。

 こんなことがあった。一人の男の子が、毎日毎日、私に向かって「バカ、バカ」と言ってくる。

私はその意味がわからなかったので、笑っていた。しかし、あまり何度も言うので、家で祖母に聞

いてみた。祖母からその意味を教えられ、悔しくて悲しくて涙が出た。そのことを日記に書いて先

生に見せたら、次の日からその子は、「バカ」と言わなくなった。

 そのクラスには、先に中国から来ていたいとこがいて、どんなことでも教えてくれたし、いつも

いっしょだった。私の唯一の頼りだった。日本人の子も、最初は私たちの所に来たが、言葉が通じ

ないせいか、みんなだんだん離れていった。先生は、私たちと日本人の子が仲良くなれるようにと、

休みの日に、みんなをいろいろなところに連れて行ってくれた。しかし、なかなか一緒に遊べなか

った。

 

 そして半年が過ぎ、だんだんと日本の生活に慣れてきた頃、頼りであったいとこが引っ越してし

まった。私は頼りを無くし、一人で学校へ行き、一人で勉強しなければならなくなった。そうして、

日本語の勉強が本格的に始まったのである。

 その半年後、私も後を追うようにして、いとこが引っ越した先に引っ越すことになった。そして、

また、いとこと同じ中学校に入った。その中学校には、数多くの中国人の生徒がいた。私もすぐに

友達ができて、とてもうれしかった一方、困ったこともあった。

 私が引っ越した先の町は、中国の人がどんどん増えていた。日本人と中国人、お互いに言葉がわ

からず、文化も習慣も違うと、さまざまな問題が起こる。たとえば、中国ではゴミを決まった日に

出す習慣がない。日本語がわかれば、「日本ではゴミを出す日が決まっている」ということがわか

るのだが、わからないため、ゴミを好きな日に出してしまう。そこからいさかいが起こることがあ

った。また、中国人でもいろいろな人がいる。誰かが問題を起こすと、「中国人はコワイ」「中国人

は規則を守らない」「中国人は迷惑だ」とウワサされた。そして、町で何か問題が起こったら、中

国人の所為にされた。ある中国人の人の家の扉に「中国人は中国に帰れ」と貼り紙されたこともあ

った。

 

 私は、中学の長い三年間を終え、高校に入学した。その高校には、私を含めて三人の中国人の女

の子が入学した。すぐ三人は仲良しになり、楽しい高校生活が始まった。学校は順調だったが、家

の方は大変なことになっていた。私の父が、突然解雇されてしまったのだ。保険もない職場であっ

た。私は、父の仕事探しに奔走した。父は日本語が話せないので、仕事探しは、日本語が少しはで

きるようになった私がするしかなかった。しかし、不況の中、日本語が話せず、もう四十才を過ぎ

ている父の仕事を探すのは並大抵のことではなかった。それでも私は、いくつもの会社に電話をし、

面接に付き添った。電話をしても、「中国人」とわかった時点で断られた。

 いつもそうだった。親戚の仕事を探すときもそうだった。電話で自分のアルバイトを探していた

時も、「中国人はダメ」と断られた。私は「なぜダメなんですか」と詰め寄った。相手は、会社の

決まりなどといって、一方的に電話を切ってしまった。「中国人」というだけで、何度断られたか

わからない。どうしてそうなのか、どうすればいいのか、私にはわからない。中国人は、この国で

は生きていけないのだろうか…

 私はもうほとんど絶望していた。今までずっと父の収入だけで生活してきた私の家族はどうなる

のだろう…このまま仕事が見つからなかったら、学校をやめるしかない。そう思って、高校の先生

に相談した。先生たちは、職安に行ったり、市役所に行ったり、面接にも一緒に行ったりして、よ

うやく仕事が見つかったのだ。それは、駅の清掃の仕事であったが、保険もあり、突然解雇される

こともないので、なんとか高校をやめずにすんだ。

 父は、毎日、家族のために、朝早くから夜遅くまで働いている。

 

 私も二人の友人、リーリとジーウェイも高校二年生になった。

 しかし、ジーウェイは、家族の事情で学校をやめなくてはならなくなった。働かなくてはならな

くなったのだ。とても仲が良かったので、寂しかった。

 

 そして、夏休みに入ったある日、約束していたのにリーリは来なかった。突然中国に帰ってしま

ったと、後から知った。もう、日本には戻ってこないということも。これでまた、だれもいなくな

った。

 学校が始まったらどうしよう。友達はだれもいない。夏休みの間中、心配でたまらなかった。

 案の定、学校へ行ってももうすでにクラスにはグループができてしまっていて、入る隙間がない

ように感じられた。みんな楽しそうに夏休みのことを話し合ったりしているのに、私の心の中は、

友達を一度になくしてしまった悲しみでいっぱいだった。

 その年、リーリが中国に帰国しただけでなく、高校にいた中国の子たちが次々に中国に帰国して

いった。日本人と血縁関係がないというので、強制的に帰国させられたのだった。ジーウェイも同

じように帰国させられた。

 日本人と血がつながっていないといっても、中国にいるときは、家族だった。中国では、血のつ

ながりを日本のようには重視しない。一緒に生活していれば同じ家族だった。私の友人たちの場合

もそうだった。みんな、私と同じように中国から来て、言葉がわからないのにがんばってやっと日

本の学校に慣れたのに。中国に帰ったらもう高校にも行けないし、今更仕事もないのに。それより

何より、私にとっては、寂しく辛かった。三人で楽しみにしていた修学旅行も、行けたのは私一人

だった。

 

 今、高校三年生。日本人の新しい友達もできて、楽しい学校生活を送っている。体育祭では応援

団もやった。みんなで夜遅くまで練習し、はっぴを作って応援した。文化祭では、日本人の生徒と

一緒に中国の踊りや獅子舞を紹介した。これまでの自分の人生を振り返って、本当に成長できたと

思う。私の夢は、大学に行って、そして、これからの中国と日本の懸け橋になり、もっと仲のいい

国にすることだ。

 夢に向かって頑張れば、最復に絶対何かが変わると、確信している。

 

 

                  

 

 

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