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今日は課題研究説明会と「私の個人主義」に関する論述の紹介です!

今日は5限目に多目的ホールで行われた2年生向け課題研究説明会を見学に行きました。木曜日に課題研究のある2年生は先週に説明を受けており、今回は月曜に課題研究のある残りの生徒対象になります。

最初に全体に向けて課題研究の進め方や講座の選び方などについて説明を受けたのち、生徒たちは担当の先生がいらっしゃるブースを回って講座で研究する内容などについて説明を受けました。

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さて139期生はどんな発表してくれるのか、今からとても楽しみです。2年生の皆さん、自分の興味や疑問について突き詰めるチャンスです。大学での学びの予行演習となりますので、張り切って研究に励んでくださいね。

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昼休みに3年生のSさんが担任の先生と校長室に来てくれました。担任の先生曰く、「『私の個人主義』を読んで感想文を書いたそうなので読んでいただけませんか」。

始業式での私の話を聞いて『私の個人主義』を読んでくれただけでも十分に嬉しいのに、読んで考えたことを文章にしてくれるなんて嬉しすぎますよね。

ということで喜んで読ませていただきました。さすが北野生ですね。感想文だなんてとんでもない。立派な論述です。本当によく書けていますので、以下に紹介させていただきます。

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「ワガママと自己本位の境界」

『私の個人主義』の内容を私が掻い摘むと、次のようになる。

  自己本位は悪いことではない。

  自分のやるべきことを見つけるには、見つかるまでそれをやり続ければよい。

  やむを得ない場合を除いて、個々の自分がどう生きるべきかを自ら決める権利は、尊重されなければならない。

  権利には義務や責任が伴い、不可分である。

 しかし、この三つが奇麗に成り立つことは難しい。

 政治家・作家・科学者などが、自らの天職に没頭するあまり、家族や友人に迷惑をかけ通しだった。そんな話は枚挙にいとまがない。もちろん、周りの人を巻き込んででも何かを成し遂げようとすることが、並みの人には到底辿りつけない高みへ行くことを可能にするのだが......

 人種差別撤廃の英雄ネルソン・マンデラは、政治活動に没頭して家族を蔑ろにし、妻子に逃げられた。

 太宰治は愛人を何人も作ったり、自分の借金のカタにされた親友を放置して遊んだり、エピソードを読んでいるだけで腹が立ってくるような人間である。

「マンデラはともかく、太宰治が周りにかけた迷惑は天職のせいではなく、本人が不道徳極まりないからではないか?」と思われるかもしれない。

 だが、太宰治は実体験を元にして小説を書くことが多い。彼の滅茶苦茶な人生が、『斜陽』『人間失格』などの名作の下地となっているのである。果たして、品行方正な太宰治に『斜陽』は書けただろうか。

 何かを突き詰めるには他の何かを犠牲にせねばならない。

 この犠牲を、自分自身で完結できるかどうかで、その人の没頭は自己本位ではなく、ただのワガママへと変貌してしまう。

 ワガママとは、言うなれば義務と責任の抜け落ちた自己本位である。夏目漱石先生も、自己本位であることを薦めているが、ワガママになってしまうことについては戒めている。当然である。

 なぜなら、ワガママは他の者の持てる権利を損なうからだ。個々の持つ権利は尊重されるべきであるにも関わらず、だ。

 例えば、親が子育てを放棄して政治活動や芸術活動に没頭すれば、子どもは生きていけない。生存権の侵害である。

 いくらその親が素晴らしい制度改革をし、または何億円もの価値がある絵を描いたとしても、子どもを養育する義務を放棄し、子どもの権利を侵害したという事実は変わらない。

 私たちは自分が自己本位であることを目指すべきだが、境界を踏み越えてワガママになってはならない。

 しかし、冒頭で述べた通り、これはかなり難しいことなのである。

 自分のやりたいことを探す、あるいは見つけることは自己本位といえる。もちろん突き詰めるのも自己本位だ。

 だが、大抵の人間は突き詰める過程で他者を巻き込んでしまう。人間関係だったり、金銭だったり、どこかしらに問題が生じる。

 どうしたらこれを回避できるのか、青二才ながら考えてみることにした。

 ワガママは義務と責任の抜け落ちた自己本位だと述べた。逆に言えば、義務と責任を忘れなければ、ワガママには陥らない。

 自分の持つ義務と責任が何であるかを、私たちは意識するべきなのである。

 もちろん、その義務と責任が一つであるはずがない。どのような義務と責任を自分が持っているかを知るのに、役立つものが一つある。

 役割である。

 役割とは権利・義務・責任の塊である。

 北野生として、〇〇部員として、✕✕委員として、課題研究のメンバーとして、A家の一員として......と考えると義務も責任も分かりやすい。

 例えば、何かの課外活動に打ち込みたいとなれば、部活に迷惑をかけないようある程度の出席は保つ。もしくは、長期間の休部を納得してもらえるように、他の部員に説明する。

 自分の中の優先順位だけで行動するのではない。既に持っている義務や責任は、放り投げてはならない。果たし続けるか、義務・責任を穏便に手放すかのどちらかだ。

 今が革命の時代なら、話は変わるのかもしれないが、管見の限りではそんなことはないように見受けられる。義務や責任を力づくで捨てる行為が称賛される世の中ではない。

 だから私は、自分の役割を......義務や責任を常に認識しつつ、他者の手を煩わせることなく、自分のしたいことを追求していければ良いと思う。

 そうすれば、ワガママではない真の意味の自己本位を実現できるであろう。

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私が一番気に入った部分が「ワガママとは、言うなれば義務と責任の抜け落ちた自己本位である。」です。本当にその通りだと思います。北野生の皆さん、始業式でも言いましたが、グローバルリーダーには必ず「義務と責任」が付いて回りますので忘れないでくださいね。

改めてSさん、素晴らしい文章を読ませてくれてありがとう!このフレーズ、またどこかで使わせていただきます!