令和6年10月11日 創立110周年記念式典(① 校長式辞)

10月11日 創立110周年記念式典を学校で行いました。平成27年の100周年式典の際には、新校舎竣工のお披露目も兼ねて、多くの来賓の方をお呼びいたしましたが、今回は規模をコンパクトにして、在校生中心でアットホームにお祝いすることとしました。その時の校長式辞の概要をお伝えします。

本校の創立は大正3年10月13日です。ご自身も視覚障がいのある吉田多市先生と志岐與市先生のお二人が私財を投じ、視覚障がいのある方の職業自立のため「私立大阪訓盲院」を開設したことに始まります。今年は色々な場面で、たいち先生・よいち先生のお名前を聞いていると思いますが、お二人のことや学校ができた頃のことなどを、お話します。

本校の創立者である吉田多市先生は、明治4年に香川県にお生まれになり、5歳の時に、はしかによる高熱で失明されたようです。大きくなってから、親御さんに、あん摩やはり灸の勉強をして職業自立したいとお願いしたそうですが、反対され、自分で銭湯(お風呂屋さん)の番頭のアルバイトをしてお金をためて、大阪に出てきて勉強されました。岡山や東京・群馬でも研鑽を積まれ、独自の鍼の技法を磨き、鍼聖(鍼のひじり)と称えられたそうです。そして、本校を作り視覚障がい教育に取組まれ、昭和12年に65歳でお亡くなりになられました。

初代校長である志岐與市先生は、明治11年に福岡県にお生まれになり、21歳の時に目の病気のために失明され、その後、大阪に出てきて、吉田多市先生から鍼を教わったようです。その後、本校で吉田先生と視覚障がい教育に取組まれ、昭和9年に57歳でお亡くなりになられました。

このお二人が、大正3年に「大阪訓盲院」を開設されましたが、創立までの経過をみると、明治38年に、吉田先生と志岐先生が「大阪盲人会」を設立し、明治39年からは、市内に設けられた講習所を先生が巡回して授業をする「巡回教育」が始まり、学校設立の強い要望に応えて、吉田先生と志岐先生を中心に、明治42年に「大阪盲人技術学校」が創られましたが、明治46年6月、当時の米騒動のあおりで経済的に破綻し、その学校は閉校となってしまいました。

そして、新ためて、お二人で計画し、大正3年に「大阪訓盲院」として大阪府の認可を受けて創立され、その院長となったのが志岐先生です。創立時の生徒数は49名だったようです。開校当時の皆さんは、どんなことを考えて、学校に通っていたのでしょうか。きっと、待ちに待った学校が出来て、この学校で、しっかり技術を身に付けて立派な治療家になって職業自立をしようと思っていたのではないかなと想像します。

その後、大正14年には、現在、大阪教育大天王寺キャンパスがある天王寺区に移転し「社団法人天王寺盲学校」となり、昭和3年には、大阪府に移管し「大阪府立盲学校」となり、志岐先生が初代校長になっています。そして、昭和13年に現在の住吉区山之内に移転、その校舎が老朽化したため、平成20年度から現地建替え計画が始まり、平成27年7月に今の校舎が完成しました。平成28年4月に、大阪市立特別支援学校の大阪府移管に伴い、現在の校名である「大阪府立大阪南視覚支援学校」となりました。

この間、大正・昭和・平成・令和へと時代が変わりましたが、本校は、創立者の思いを受け継ぎ、日本における視覚障がい教育を牽引すべく、大きな役割を果たしてきました。どんな取り組みをしてきたかは、110周年記念誌や学校のホームページなどで、また、ご覧ください。

これから先の時代は、社会の変化が加速度を増し、複雑で予測困難となると言われています。だからこそ、110周年のスローガンである『かがやく笑顔で、つなごう大阪南』にあるように、皆さんは、歴史と伝統のある学校で学んでいることを誇りに思って、しっかり勉強して、仲間と新たな歴史を築き、そして、伝統を繋いでいってください。

そして、私たち教職員も、伝統を継承しつつも、「不易と流行」を常に意識し、専門性の高い視覚障がい教育の実践ができるよう、最善を尽くしていきたいと思います。

(写真は、同窓会にリニューアルして頂いた志岐先生と吉田先生の銅像です)

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