洋々と湛ふ大淀川
戦時下のほんの数年間しか歌われなかった幻の名曲作詞:佐々木信綱
作曲:橋本國彦(36期)
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1935(昭和10)年、新校歌が完成した。
それまでは土井晩翠作詞の校歌が歌われてきたが、爾来20年、生徒数も1400名を越え、校舎も新しく十三に移転したことなどから、新校歌作成の声があがり、佐々木信綱に依頼していたものである。
元英語科教諭の水鳥喜平先生に当時の様子を聞いた。
「佐々木博士は来校され、十三新校舎の屋上に立ち、四方を眺めておられた。…(中略)… それから博士は講堂で全校生徒に講話をされた。『私は校歌の作詞を頼まれた。今屋上から四方を良く見て、頭の中に入れた。これから東京に帰って作る積りだ…』などのお話であった。…(中略)… 佐々木信綱に作詞を依頼したのは、かれが江崎校長夫人の和歌の先生であったからのようである。」
六稜同窓会からは「校歌は新しく作って欲しくないが、どうしてもというならば、作曲は本校関係者に依頼してほしい」との要望があり、本校卒業生で東京音楽学校教授の橋本國彦(36期)に依頼、1935(昭和10)年9月に完成した。
この校歌は1940(昭和15)年頃から卒業式などの儀式や音楽の時間に盛んに歌われたが、ラグビーの天王寺中学対抗戦などの時は、依然として旧校歌が歌われていた。 さらに敗戦後は、歌詞の「皇国」などが時代に相応しなくなったこともあってか、この校歌はまったく歌われなくなり、現在は旧校歌が校歌として歌われている。
野口藤三郎(53期)
昭和14年、突然として新校歌が発表された。
作詞 佐々木信綱氏
作曲 橋本国彦氏(36期)
でいずれも歴史に名の残る、斯界の大御所といわれた重鎮の手になる名曲である。
残念にもこの歌は名曲であるにもかかわらずあまり歌われることなく、昭和20年の敗戦とともにどこかへ消えてしまった。旧校歌『六稜の星のしるしを』が大変情緒的な漢詩であるのに較べて新校歌『洋々と湛ふ』はどちらかと言えば抽象的な詩であるだろうか?
時代的背景もある。皇紀2600年(昭和15年)を控えて新機軸を出そうという長坂五郎校長の独り角力であったこともその理由かもしれない。(長坂校長には気の毒だが、前校長・安達貞太、前々校長・江崎誠の2校長が当時の中学校長として傑出した名校長であった。) だが、この曲がそういった時代、人物の評価とは無関係に「名曲」であることに変りはない。
親しみなじんだ古い校歌とは別に、この校歌も何らかの別の位置づけをして、長く北野人に愛唱されることを期待して止まない。
参考●『北野百二十年』p.130 (1993)
『創立120周年記念音楽会プログラム』p.23 (1993)