アセンブリーの感想

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システム準備のためにどれぐらいの時間がかかりますか?
(もし、ど素人がするとして・・・・)

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webで情報がすぐに手に入れられるのは大変よいのですが、プリントアウトの問題があります。生野高校では生徒が自由にプリントアウトできるのですか?

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あせんブリ
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全体会の質疑応答の際に出た、国語力と論理性について結局よくわからなかったのですが……。国語の授業で論理力も身につくと私は思います。

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 卒業式の答辞送辞・生活体験発表の作文指導などで、生徒はケータイ・スマホのメモで文章を用意してきます。紙に書くより敷居が低いようで、「さすが今時の生徒だ」と感心します。「授業でも同じことができるのだなあ」と今回の研修で知ることができました。次に国表を担当する機会があればぜひやってみたいです。

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19歳と22歳の息子たちは、ブログなどで文章を書くのは当たり前のようです。大人が追い付いていないだけでしょう。「パソコンで文章を作らせてはいけない」はずはありません。どんどん活用していきましょう。

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●情報処理速度の速さと表現の内実について

ICTの情報処理技術に関して、
・(生徒)書くにあたって、簡単に打ち込み・削除・訂正ができるという特性からハードルが下がりやすい。
・(教師)上記と同様の特性から添削指導、フィードバックがしやすい。
といった意見がありました。
一方で、分科会のなかで実施した掲示板交流には、
「鉛筆を持って手で書くということとICTで打つこととの間には、思考や表現に至るプロセスに違いがあるのではないか」
といったような声もありました(確か)。
これは考える価値のある指摘だと感じます。
書くということが人間を形づくってゆくプロセスである以上、
利便性の奥底で、こうした処理技術の変化がもたらすもの
(表現の質はどう変化するあるいはしないのか。処理速度が思考に与える影響は何か。など)
についても考えていかなければいけないと感じます。

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●情報伝達技術に関して

伝達ということについて、具体的にはblogや掲示板の活用が紹介されました。
どちらも閉鎖的なもの/開放的なものが存在します。
いずれにせよ、それらは授業の一環で用いる以上、公の性質を持ちます。
それらは、投稿する生徒の側に一定の構えを要請しますし、公開に際しては教員による承認制を敷くこともできます。
そうした安全を確保しつつ授業実践の中で表現作品を公開してゆく中で、
生徒の表現がより良いものになっていくというご意見には深く納得しました。
かつては表現作品の公開といえば、読者範囲が限定されたり、
一部の生徒(文芸部員やコンクール応募者など)に限られていたと思いますが、
その限定が外されつつあるという実態は、指導者の指導のあり方や表現に対する構えに再考を促している感じます。

一方、生徒を取り巻いている現状としてtwitterやfacebookといったSNSが存在します。
国語授業実践の中でICTの活用を、と考えた際、
〈授業内においては〉一定の質を確保した表現が可能である、
あるいは〈授業内においては〉処理技能上指導がしやすいて活動が充実する、
といった水準で完結してはいけないと考えます。
ネットという世界に開かれた空間における表現の可能性ということについて、
(てっとりばやく言えば、twitterやfacebookは〈表現〉なのか、や
その空間はわたしたちの思考や表現をどのように規定するのか、など)
本気で考えなければいけないと感じます。

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●国語表現の評価について
分科会の掲示板利用の中で、評価について触れたコメントが2、3あったように思います。
現場の実態として、
・最後に評定をつけなければならない、
・それは誰もが(他教科や学校外の人間も含め)納得し得る客観的指標でなければならない、
という構えが見えるような気がします。
一方で、表現されたものの良し悪しはどのように評価しうるのか?という葛藤も感じます。
評価する、ということに関しても、十分に一つの議題になるように感じました。

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●論理について

全体会で、
「語彙力もあるし読書量もある。センターも解けるし、テキストの読み解きについても知っている。
それでも論理の力がない、というのはどういうことか」
といった投げかけがありました。
国語力であったり、ことばの力であったり、表現はいくつかありましたが、
「論理的に読む、ということを高校ではなぜしないのか」というのが、
発言者の根本にある疑問だったと思います。

エピソードひとつとれば(予備校にて数学の先生に「国語力がない」と言われた)、
どこの学校にもありそうな一幕で、笑いも生じようものですが、
これは、なかなか本質的で難しい問いかけだと感じます。

「論理」というものは明示でき、そして教授できるものである、
という前提に立ってこその発言のように思います。
「論理」はそのようなものなのでしょうか。

また発言者における「論理力」の有無判定には試験が大きく係わっていたように感じます。
受験対策ということについては、その必要が大きな学校では実施しています。
それでも「高校では身につかなかった」という実感。
予備校ではそれに気づけた、という実感。
何が違うんでしょうか。
論理力でテキストを読解した結果、たとえば2013年センター第一問が満点だった。
その結果をもって、小林秀雄を読めた、と言えるでしょうか。

「論理力」がテキスト読解に必須のものである、ということばに、
特に違和感はないように思います(語の厳密な定義は置くとして)。
そうであれば、そうした力の養成をわたしたちは日々実践しているといえる(はず)。
でも、そのような実感が高校生の側にはない。
なぜだろう。

もちろん、テキスト読解に必要な力というものは、
○○力、という一語に集約されるものではありませんし、
テキストの種類、読解者の技量、設問の質、受験制度などなどいろんな要素が絡んでおり、
端的に解答を示すことはできないと思います。

ただ、今回の問題提起はテキスト読解の技能的な問題ではなく、
読むという行為そのもの、テキストを読めたという事態の内実に係わってくる話でもあるように感じます。

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●読解に際する「技能」について(1)


問題提起のレジュメの中に、以下のような記述がありました。

■「また、羅生門か!」
「技能目標については、小説の視点・語りの問題と、心情の変化の読み取りという必須項目を立てました。
 しかし、価値や主題ということについてのめあてが立たない。」


・この記述からは以下のことが理解される。
①授業のめあては、技能と価値の二側面から立てることができる。
②技能のめあてには、小説の視点や語り、心情変化といった観点の読解技能が盛り込まれる。
③価値のめあてには、そのテキストがどのように現代に妥当するか、という
 現代社会への深い洞察と未来を見渡す視野が必要となる。

・価値ということに関しては他の登壇者から、人の意見に流される直情型の老婆へ焦点をあてた授業例、
 下人のゆくえを考えさせた授業例が示され、これもまた、なんらかの価値を志向したものと思われる。
 (ただし、その価値あるいは主題は明示されなかったように思う。
  とりくみ例から推察することで、なんとなく目指した方向が見えてくるように感じる。)

・拝聴しながら感じたことは、少なくともわたしには、こうした「価値」ということ以前、
 〈テキストを読み解くための技能〉についての力量が不足している、ということ。
・小説において、なぜ視点や語りに注目する必要があるのか?
 なぜ変化を問うのか? その中でも心情の変化が特に問われるのはなぜか?
 変化はどのように判断するのか?
・もっと言えば、ひとつの教材を読み、授業を構成する際、どこに線を引き、どのような問い方で発問すべきか?
 ということに対する根拠が、今一つ、不明瞭なのである。それは評論文でも同じことである。

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●読解の「技能」について(2)

・そこで結局、何を根拠に授業をするのかと言った際、恥を承知で言えば、「指導書」が大きな手掛かりになる。
・しかし、「指導書」には発問と解答例はあっても、なぜそこが発問になり得るか、ということの言及は少ない。
 もちろん、「生徒には理解しにくい表現である」とか、「主人公の心情の変化を掴ませたい」とか、
 「これこそ筆者の主張の主眼である」とか言ったことは書かれているが、
 しかし、なぜ理解しにくいのか? それは単に生徒の無知に還元できることなのか?
 なぜ心情変化を問わねばならないのか? なぜ、明示されていないにも関わらず変化した、と、
 教室全体で共有し得るのか、その筋道はいかなるものか?
・抽象的な表現について「説明せよ」という発問(設問)は入試問題でも頻出であるが、
 基本的に入試に出題されるようなテキストは生徒の日常にはなじみ薄いものが多く、
 全体を通して抽象的な印象を受けるものである。その中でも特に、なぜそこに線が引かれた(つまり指導書では
 発問としてとりあげられ、受験では線を引かれる)のか、
 そしてその抽象的表現を言い換える際、なぜその表現(つまり解答例にあるような表現)が用いられたのか、
 その筋道についても、実は非常に不明瞭なことが多いように思う。
・もちろん、指示語の指示内容について掴ませる、だとか、逆接の接続詞に注目させる、
 といった、最低限の技能はわかる。でも、そういった小さなことだけをクリアしていっても、
 そのテキストの主旨には決して到達しない。テキストを捏ね繰り回して継ぎ接いだ解答ができるだけ。

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●読解の「技能」について(3)

・国語に関する議論では、しばしばテキストの「価値」に重きが置かれているように感じるが、
 「価値」に到達するための「技能」について、国語教師は本当に習得しているのだろうか。
 ――自分で教材を見つけ、分析し、指導書も過去問もなく発問を構成し、解答例を作成する。
 といったことは、国語教師である以上できて当然だろうか。
 (教材選定にはもちろん「価値」についての洞察が必要となる。)

・少なくともわたしには、できない。悔しいし情けないし恥ずかしいけれど、
 できた、と自信を持って迎えた授業はないし、悲しい気持ちで指導書で確認している。
 「テキストの「価値」に到達するための「技能」について、国語教師は本当に習得しているのだろうか。
  自分で教材を見つけ、分析し、指導書も過去問もなく発問を構成し、解答例を作成する。
  といったことは、国語教師である以上できて当然だろうか。」
 という問いについては、すべての国語教師に問うてみたいし、答えを聞かせてほしいと思う。

・全体会であった「論理的に読む、ということを高校ではなぜしないのか」との問いは、
 こうした読解の「技能」に係わっている発言だと感じているし、
 しかし一方、そうした「技能」で「論理的に読めた」としてそれが「読む」という行為の本態なのか、
 という疑問も残る。

投稿者
sta
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 多くの先生方は若くして教壇に立ち、ことばの学びについて悩みながら教室で授業を続けられています。教室は、先生の変化とともに変わっていきます。国語教育個体史というものの見方があります。一人の先生が何を考え、何を目指し、どんなことをどのように進めてきたのかをトータルで知ることによって後に続く先生方は気づきと勇気を得ることができると思います。先生にとっても生徒にとっても、ことばにかかわる発見がある限り、ことばの教育はその命脈を絶たれることはない。何とか少しずつ、よりよい教室を目指したいと思います。先生のような問題意識は立派だと思いますし、悲観的になることなんてないと思います。