前身校開校の頃の学校生活

 さて、こうして発足した実科高等女学校は、その直後の5月6日には早速、笠置・奈良地方への遠足を実施するなど、今とあまり変わらない学校行事ではあるが、当時の特徴として、やたらに儀式が多く、海軍記念式(5月27日)、地久節拝賀式(5月28日)、陸軍記念式(3月10日)、天長節祝賀式(大正天皇御誕生日・10月31日)、明治
天皇御誕辰祝賛式(後の「明治節」・今の勤労感謝の日・11月3日)、四方拝祝賀式(元且祭・1月1日)、紀元節祝賀式(今の建国記含の日・2月11日)などが主なもので、これらの日は学校は今のように休業ではなくて職員・生徒一同、早朝から講堂に集まって儀式をし、そのあと校長の訓話や地域の名士の講演を間いたりした。またこの明治45年という年は大正時代への「代がわり」の年で、『大阪府河南高等女学校・学校沿革史稿」の記録によると、職員生徒一同が喜志の「美其久留御魂(ミグクルミタマ)神社」に参拝し、聖上陛下(明治天皇)御不例御本癒(ご病気全快祈祷式を挙行(7月23日)、さらに向日保雄・南河内郡長が美其久留御魂神社において「聖上陛下御悩御平癒祈祷式」を挙行されたので、本校より杉本美之助校長、内田愛蔵教諭の両名がこれに参列し(7月27日)、同日、校長は次のような「天機奉伺書」を大阪府知事官房宛に奉呈した。「聖上陛下御異例ノ公示ヲ拝承シ臣等恐懼措ク所ヲ知ラズ。ココニ謹ミテ天機ヲ奉伺シ迅ニ御平癒アラセラレムコトヲ祈り奉ル。」明治天皇は7月30日午前0時43分崩御遊され、翌31日元号が「大正」と改元されたが、これに伴う「天機奉伺書」(宮内大臣宛)や「御機嫌奉伺書」(皇后宮大夫宛)の奉呈、「御大喪遥拝式」が富田林高等小学校の運動場で、富田林尋常小学校・同高等小学校との合同で挙行される(9月13日)など本校は開校早々、異例の儀式の連続であったようだ。しかもこれに加えて、当地独特の土地柄を物語るようなもの、たとえぱ「大楠公追幕式」が観心寺境内の大楠公首墓前で(7月12日)、また、「小楠公追慕式」(2月12日)など、当時は学校教育においては、いわぱひとつの手段として儀式というものを位置付けていた。また、課外活動としては、開校当時の記録によれぱ各小学校で開催される「成績品展覧会」への出品(大正2年7月1日・同10月16日)、秋季修学旅行(10月24日・今の遠足)、学芸会G1月3日の明治天皇御誕辰祝賛式終了後)などがみられるが、やや大掛かりなものとしては3月7日に本校で「成績品展覧会」が開催ざれ、来観者700人を数えたと記録されている。今でいうクラブのバザーのようなもので生徒の作品の展示即売会であったらしい。


 修学旅行の主な行き先は近くて天野山金剛寺、遠くて伏見桃山東陵などであり、また、職員生徒有志による金副山雪中登山もあったが、大正6年ごろには全校で「登山旅行」(10月31日)や「遠足旅行」(11月17日)と称して学年別に計画して行なわれるようになった。たとえぱ、1年・金台寺山、2年・二上山、3年・信貴山、4年・千早・金剛山にそれぞれ分れて登山、また遠足は、l年・誉田方面御陵・道明寺・玉手山、2年・天野山金剛寺、3年・梅鉢御陵、4年および補習科・高貴寺といった具合である。
 大正4年11月10日には大正天皇の御即位札奉祝式を行なったが、その翌日から2日間「大礼奉祝学芸会」というものを催している。翌11月13日には「裁縫競技会」、そしてその会の終了後、南河内郡教青会主催の「大礼記念講演会」を聞きにいった。そして翌5年3月17日には、公開中の御大札御式場拝観のために京都市に「修学旅行」をしている(大正天皇の御大礼は京都御所で行なわれた)。その他この年の記録によると大阪結核予防協会から講師を招いて衛生講話を開いたり(5月2日)私立染織講習会員による「洗濯講習会」を開いている(5月22日)。


 

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目次

表紙

校歌

河南高校全景

学校方針・校旗・校章

沿革の概要

創立より大正末期まで

前身校の開校式に向けて

新校舎への移転

郡立女学校への改組

高等女学校の授業

校名三選の軌跡

河南高校「松原分校」のこと

80年の歩み<昭和初期から現代まで>
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