河南高校「松原分校」のこと

 

昭和26年G951年)に開校され昭和41年(1966年)廃校になった河南高校「松原分校」(夜間定時制)は松原市上田の柴籬神社の敷地内にあった。いまはそのあとの一角に松原市立第3保育所がたてられている。

 開校当時は、普通科、商業科、家庭科の三科で出発したが家庭科は第3期生まででなくなった。開校後数年間は、まだ戦後の混乱期の余波が残っており、旧制度で義務教育を終えた人たちが新制高校でもっと勉強したいという意欲に燃えて入学してきた。したがって、年齢の高い人も少なからずいた。年を経るにつれて、そういった高年齢者は減り、中卒から引き続き入学する生徒がふえてきたが、いずれにしても年少の時から苦労をして、さまざまの経験をつんできた生徒がたくさんいた。ある生徒は、当時アメリカの施政権下におかれて外国扱いにざれていた奄美大島から密航して大阪の親戚の家に住み、昼間働きながら松原分校を卒業した。また、ある生徒は早くから父に死なれ、病弱な母と自分の下にたくさんの兄弟がいて家庭経済がきわめて困難な中で分校に入学してきた。彼は勤めから入る収入だけでは生活がなりたたないので新間配達をし、さらに牛乳配達まですることにした。朝の勤務に間に合うように計算した彼は午前3時に新間店に行って、店主から「こんなはように来ても新聞はまだ来てえへんが」と言われたという。

 大なり小なり恵まれない境遇の中にありながらも、生徒たちはよく頑張った。開校5年目、陸上部というほどのものもなく、走ることが好きという1年生から4年生までの生徒数人が読売新聞社の「高校駅伝定時制の部」に参加して、参加30校中5位に入って、読売に報道されたのが輝かしい記録のひとつとなっている。言葉では言い表わせないほどのボロ校舎、お世辞にもグランドとは言えないようなせまい校庭の「松原分校」へ入学する生徒は創立当初から少なかった。世間での高校進学卒が高まると共に入学志願者はさらに減少の一途をたどった。くわえて、定時制通学の困難さから退学者が多く、生徒が4人しかいないというクラスさえできた。

 ついに昭和40年(1965年)、府教育委員会は廃校を決定した。次年度から募条を停止して、現在、在校する生徒が卒業すると同時に廃校にするというものであった。廃校の決定と同時に、生徒たちはもちろん、卒業生も一斉に廃校反対違動に立ち上がった。分校の教織員もPTAも連動をおこした。教織員とPTAは、府教育委員会に障情すると共に、松原市議会や松原市内や府下の労働組合その他の諸団体に働きかけて廃校の撤回をかちとろうと努力した。卒業生たちも「母校がなくなる」という危機意識で必死の運動を展開した。在校生の「母校を残せ」という要求はもっと強かった。彼らは、府下の他の定時制高校の生徒自治会によびかけて、廃校反対の署名への協力などを要請し、みずからは阿倍野橋に出かけて署名違動をするなど、考えられるかぎりの運動をした。最後には、ハンストまで計画したが、それは周囲からの説得で中止した。このような努力にもかかわらず廃校の方針を撤回させることはできなかった。しかし、「天王寺から富田林までの間に定時制高校がなくなる」という訴えに対して、府教育委員会は新設の藤井寺工業高校(創立時は河南工業高校)に定時制課程を設けて、そこに現在の松原分校生徒を受け継ぐということにした。当時在校した3年生以下の生徒たちは、あとにつづくものもいないまま淋しく学校を卒業していくという事態だけはまぬがれたが、河南高校松原分校同窓会「松柏会」の名簿に名を連ねながら藤井寺工業高校卒業生となった。

 さまざまの苦難をのりこえて松原分校を卒業した世代も、いまは社会での「働き盛り」として各界で奮闘している。

(文責:囲中克彦)

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目次

表紙

校歌

河南高校全景

学校方針・校旗・校章

沿革の概要

創立より大正末期まで

前身校の開校式に向けて

前身校開校の頃の学生生活

新校舎への移転

郡立女学校への改組

高等女学校の授業

校名三選の軌跡

80年の歩み<昭和初期から現代まで>
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