本校創立より大正時代末期まで

前身校設立の気運とその経過
郡視学  

山本喜太郎

南河内郡長 

向日保雄

裁縫学校主事 

三根隆澄

 本校設立の兆しは、遠く明治34年(1901)2月大阪府南河内郡通常郡会においての「高等女学校郡設の建議」であった。翌35年2月13日の通常郡会に同案を上程したが、「時期尚早」との理由で無期延期となった。
 そこで郡視学・山本喜太郎氏は近き将来において郡内での高等女学校設立の基礎になるであろうとの遠謀深慮から裁縫学校の設立に尽力され、ようやく明治39年3月、その設立が認され、ここに本校の前身校として明治39年(1906)4月1日、「富田林高等小学校附設裁縫学校」が開校し、発足したのである。入学生徒数50名、主事に三棋隆澄氏が任命された。4月4日に挙行された開校式で南河内郡長・向日保雄氏はその「告辞」の中で「日露戦局平和の今日、ここに時機のて適せるの事業なりと信じて「国民の一大発展を覚悟せざるべからざるのときにあたり、賢母良妻の養成それ必要なしとせんや。本校設立の趣旨、またここにありと信ず。」とあるように明治37−38年の日露戦争戦勝ムードの中で国民の意気が高揚しつつある時代の潮流がうかがえる。

 

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目次

表紙

校歌

河南高校全景

学校方針・校旗・校章

創立より大正末期まで

前身校の開校式に向けて

前身校開校の頃の学生生活

新校舎への移転

郡立女学校への改組

高等女学校の授業

校名三選の軌跡

河南高校「松原分校」のこと

80年の歩み<昭和初期から現代まで>
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