郡立高等女学校への改組

 新校舎も完成し、諸設備も整い、生徒数が増加の傾向にあり、同窓会結成が実現してまさに学校として名実ともに完成の域に達した大正7年4月23日、文部省告示第141号をもって従来の実科高等女学校を「高等女学校」に改組し本科と実科を併置して、「大阪府南河内郡立河南高等女学校」に名称変更することが認可ざれた。大正5年4月15日に杉本校長が愛知県に転出されたあとをうけて、本校の発展期に舵取り役を勤めてこられた榛沢常人校長は、7年7月25日にご退職になり、代わって井上一校長が就任された。
 大正7年11月3日には午前10時からの父兄会に引き続いて11時から第1回運動会が開催された。
 また、この年の11月7日より向こう10日間、「流行性感冒蔓延ノ虞アルニ付キ」臨時休業としたという記録がある。
 大正8年9月12日に来賓200余名を迎えて盛大な「新築落成式」が行なわれ、その式後、3日間にわたる「展覧会」を開場し、特に最終日の9月14日には観覧人2,000余人をかぞえている。


 10月15日には「郡内軍人戦病死者弔魂祭」が行なわれ、織員生徒一同参拝、その日の午後は講演会、10月22・23両日は、「節米調理講習会」という、今の時代では考えられないようなものがあった。10月29日からは生徒に上靴の使用をさせている。11月1日に、高等女学校になってから第2回目の運動会、また、11月24日から「昼食後の休憩時に作法室において、井上校長指導のもとに生徒に静座を行なはしむ」とある。
 大正8年3月26日、高等女学校になってからの最初の卒業式が挙行され、本科卒業生32名、実科卒業生級36名、補習科修了生5名の計73名が巣立って行ったのである。
 大正9年3月12日、「卒業生記念旅行」(今の修学旅行)として伊勢大神官、二見浦へ1泊旅行に出かけ、13日には在校生全学年で叡福寺壷井八幡宮に遠足をしている。
 このように、当時の学校行事を年間通して見てみると諸儀式、祝賀会を中心として特に地域との係わりを重んじた内容や精神修養を目的とした訓話・講演が、それがしかも頻繁に行なわれ、その多彩な点では現在の比でないという感じさえする。

 

戻る      次のページ


目次

表紙

校歌

河南高校全景

学校方針・校旗・校章

沿革の概要

創立より大正末期まで

前身校の開校式に向けて

前身校開校の頃の学生生活

新校舎への移転

高等女学校の授業

校名三選の軌跡

河南高校「松原分校」のこと

80年の歩み<昭和初期から現代まで>
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15