いよいよ明日から修学旅行です。明朝は始発に乗らないと間に合わないので早く眠るつもりですが、今夜は中秋の名月でした。というわけで、外に出て、明日からのために持って帰ってきたカメラで名月をパチリ。ちょっといい感じに撮れました。いつの日か、月への修学旅行なんてできる日が来るのでしょうか(^^)/
さて、修学旅行の期間中は「校長ブログ」をお休みして、こちらのサイトで29期生の修学旅行の報告を少しずつしていこうと思います。よろしくお願いします。
生徒の皆さんが持っている栞に載せていただいた巻頭言を掲載しておきます。生徒の皆さんの一人ひとりが、沖縄を知り、それぞれの感性で、仲間とともに沖縄を感じてくれたらいいなと思います。明日からが楽しみですね(^^)/
Have a good sleep, and have a good dream!
【沖縄に思う】
2001年9月、総合学科5期生の担任だった私は、翌月に控えた沖縄修学旅行の準備を生徒や先生方と一緒に着々と進めていた。張りぼてのシーサーを作ったり、密かに大正区の沖縄文庫へ通っては三線を教わったりもしていた。当時の修学旅行は、海外と国内の2コースに分かれて実施していた。5期生はマレーシア・シンガポールと沖縄で、沖縄を希望した生徒は70名程だった。海外へ行く生徒達もパスポートを用意して、栞もほとんど出来上がっていた。日毎に楽しみが募る頃に事件は起きた。
9月11日夜、ワールドトレードセンターに2機の旅客機が激突した映像が世界中を震撼させた。そして、大切な生徒を旅客機には乗せられないと、修学旅行は中止になった。落胆する生徒達を少しでも慰めたいと、修学旅行の予定日に皆で浜寺公園へ行って、大スポーツ&BBQ大会を開催したが、到底代償にはならなかった。結局2月に陸路で菅平へ向かい、スキーを主とする修学旅行を実施した。張りぼてのシーサーはいつの間にか無くなっていた。
その後11年本校にいたが、生徒達と一緒に沖縄へ行くことはなかった。本校に戻って3年目、今高生と行く初めての沖縄。あれから24年、ようやく行ける。
24年前も今も世界が平和であるとは言い難い。今、この瞬間も戦争という「正義」のもとに残虐な行為が繰り返されている。しかしながら、大変身勝手ではあるが、私は今高生と一緒に沖縄に行けるのだ。大変有難い。感謝の思いでいっぱいになる。2025年8月15日、戦後80年を迎えた。
沖縄本島の南端、摩文仁の丘に「平和の礎」がある。世界の恒久平和を願い、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦等で亡くなられた全ての人242,567名の名前が刻まれている。うち沖縄県出身者は149,674名。伝え聞く悲惨な戦史の中でも「醜さの極致」として特筆される激しい殺戮が行われた沖縄戦は、1945年4月1日に米軍兵が読谷村に上陸した時から始まった。ここには想像を絶する悲しい歴史がある。
終戦後、村の95%が米軍に接収された。1972年5月の本土復帰時においても73%が基地として利用され、戻ってくることはなかった。その後、読谷村の人々などの長い年月にわたる努力によって土地の返還がなされていったが、現在も村面積の36%を米軍基地が占めている。それでも、読谷村は日本一人口の多い村になった。
民泊でお世話になる読谷村の人々は実に温かい。零れ落ちるほどの笑顔で、「いちゃりば家族」と優しく迎え入れてくださる。温かい人が住む家は暖かい。生きるとは何か。豊かさとは何か。1日で生徒は何かを見つけるかもしれない。「なぜ沖縄か」の答えがここにある。
もう一つ、読谷村に住む金城実さんという彫刻家のアトリエ横に、高さ12.3mの「解放のオガリ」が佇んでいる。大阪と縁が深いこの母子像の話は、機会がある時にしたい。あちらこちらに「なぜ沖縄か」を考える種がある。
最後になりましたが、仲間と寝食をともにして、いっぱい学び、いっぱい遊び、身体いっぱいに美ら海を満喫するこの旅が実現できますのも、保護者の皆さまのご理解と多大なるご支援があってのことと心より感謝申しあげます。生徒にとってかけがえのない旅になりますことを願っています。
(2025年8月15日 記)