10周年・20周年 アーカイブ

10th Anniversary · 20th Anniversary Archive

開校前史

日根野の思い出

初代副校長 大谷 志津雄

 雨上がりの朝、犬鳴の山に霞がかすんで、墨絵ばかしになる眺めは、登校時の楽しみの一つであった。JR日根野駅から、黒崎窯業に沿った通学路には、右手に菜園が広がり、折々の花が季節を告げ、春先には、土筆や芹など市街では忘れられた草々が目を楽しませてくれました。
 そうした環境の中の、小高い丘の上に白亜の新しい校舎が建てられました。設計者の方のお話では、屋根を角ばらさず、又窓などもできるだけアールをつけた柔か味のある校舎を心がけた、とのことでした。府立最後の高校として、分校本校方式(生徒減少期には、古い本校佐野高校を廃してこちらを本校とする)ということで建てられた学校だけに、本校の玄関の雰囲気を失わない、伝統を感じさせる美しい学校を要望していました。それだけに玄関囲りの造作、威容を誇る体育館、食堂横の日本庭園等いずれも満足できるものでありました。

 次に、如何にして立派な先生を集めるか、が重要課題でありました。当時新設校は、教科指導より生活指導に重点を置かなくてはならない学校が多く、従って両方に強い人を選ぶことを心がけました。幸いにして、先輩の校長先生方や府教委から多数のご推薦を頂き、島田教頭共々面接を致しましたが、流石に推薦されるだけあって話せば話す程素晴らしい人達でありました。2年目、3年目と立派な人材を得て、心頼もしく丁度「水滸伝」の梁山泊に集まった英雄豪傑を見るような心強さを感じ、楽しくて仕方がありませんでした。できるなら、もう一度あの楽しさを味わってみたいものだと思っています。

 本校から森田先生においで頂き、進路指導に造詣の深い先生をいきなり教務部長にし、開校前後から口では云えぬ様々な御苦労をおかけしました。人柄の良さと創意工夫の豊かさで、強力なスクリューの役割を果たして頂き、スムーズな船出ができました。紙面を借り、その功を讃えたいと思います。又生指部長として、貝塚から迎えた尾﨑先生には、何かあれば、積極的に家庭訪問をして頂き、全て大過なく推移した功は大きなものがありました。故高階先生には、地元各団体との折衝やPTA活動の工夫等大変頑張って頂きました。又体育の高木先生には開校当初、集団訓練をお願いし、その甲斐あって始・終業式や学年集会等驚くべき敏捷さで集合が完了し、5分前には咳の音ひとつしない整然たる集会の態勢ができていたことが印象に鮮かです。

 又、準備室主幹として一年前に赴任された、岩波事務長の昼夜を分かたぬ真摯なご努力が、施設、設備の面で他に見られない様な優れた成果を挙げていることを付記しなくてはなりません。更に島田教頭は、私とは一つ違いで、元は同僚であったにもかかわらず、常に教頭・副校長のけじめをつけ、細大漏らさぬ補佐、否支えをして頂き、今尚深く感謝しております。当時の先生方にはお一人おひとり色々ご披露申しあげるべき事が多々ありますが、残念ながら紙面の都合上、御寛恕頂き、当時計画したが実現しなかった事を二つ程付記したいと思います。ひとつは、裏手の池を借りてボート部を作ろうというアイディア。まじめに取り組み、艇庫を笹川財団にお願いしようと働いたが、府教委の段階で残念ながらダメになりました。もう一つは、地元産業に貢献する為、つくば万博での水耕トマト(1本の木に1万個のトマト栽培)にならって、価値の高いメロンの水耕栽培をしようと考え、巨大な温室の設置を府教委に申し出たが、農業科でも園芸科でもないのだから予算はなかなかつかないという事で実現しなかったのですが、今でもその夢は捨てきれないでいます。花見や七夕等々、思い出はつきませんが、いつかまた、お話しする機会があればと思っています。

(創立10周年記念誌より)

開校当初のころ

初代教頭 島田 侃治

 生徒急増期の最後の大規模校として設立された府立佐野高等学校日根野校が、学区の期待に応えて昨年から独立校として校名を改め、創立10周年を迎えられたことは、この上ないご同慶の至りであります。
 昭和61年10月1日、府立佐野高等学校への業務辞令を受け、大月校長・大谷副校長と共に学校建設現場を訪れたのが日根野校との最終の出会いでした。工事は計画通り進捗し、校舎と体育館の全てが2月中に完成すると聞き、当日遅くまで開校の準備、学校の構想など語り合ったことが懐かしく思い出される。「明るく楽しい学校」をモットーに、目的意識を持たせ成就感や達成感による喜びの体得を教育目標と定め、恵まれた環境、関空連絡橋の基礎工事を遥かに望む日々の出発だった。
 大谷副校長の卓越した学校の基礎づくりと奥一男初代PTA会長を中心とする保護者の協力、教職員の真摯な努力に支えられました。あの美しい白亜の校舎は、私の脳裏にいつも蘇っています。

(創立10周年記念誌より)

日根野の歴史

元・本校教諭 西浦 孝夫

 5世紀の泉南地方は、土着氏族の弱勢の為、南から侵入してきた紀氏の経営と、泉北から始まった大和朝廷の開発が交錯し複雑な様相を呈していた。しかし、8世紀の日根郡一帯は、上之郷に居館を構えた日根造によって支配されていた。日根造はこの地の管理者として新たに任命され、強力にこの地の開発を押しすすめた。中世に入ると、この地で活躍した日根野氏(日根氏・比禰氏)は、日根荘の荘官として日根野を本拠とし居館が中筋にあったと考えられている。日根野氏は、鎌倉時代は中原姓を称し、九条家の所領である日根荘の預所職と東北院領長滝荘弥富氏の下司職及び公文職を兼任していた。名の示すとおり、平安初期までは未開の原野であり、桓武天皇の日根野遊猟以降開墾され、耕地が寄進売与され荘園となった。日根野氏は、当地の有力者として多くの名田を所有し荘官の地位を獲得していった。地頭と荘園領主が対立する中で領家方の勢力が強かったことが日根野荘の特色である。校舎から見える十二谷池(住持池)、桜の名所日根神社に当時を偲ぶことができる。

(創立10周年記念誌より)