今日は、1月17日。阪神淡路大震災が発生した日です。もう、あの日から22年が経ちました。と言っても、今、布施高校に通っている生徒は、生まれていません。あの震災を経験していません。
あの日、なにが起こったか、それぞれがそれぞれの立場で経験した「あの日」を語り継がなければならないほど、年月が経ちました。
あの日、私はいつもように朝のトレーニングをしようと5時に起きて準備をしていました。そして、トレーニングウェアに着替え、いざ、外に出ようとしたときに、5時46分が来ました。「あ、地震!」と思いましたが、すぐに大きな揺れを感じ、「これはやばい!」とおもいましたが、足がすくんで動けなくなりました。できたことは、壁に身を寄せてひたすら揺れがおさまるのを待つことです。全身に、鳥肌が立ち、恐怖を感じました。
やがて、揺れがおさまり、家族が寝ている2階に駆け上がりました。そして、目に入ったのは、次男の布団の上に大きな座卓が倒れこんでいる状態です。思わず、子供の名前を呼んで駆け寄ると、ちょうど机の脚と脚の間に次男は寝ていたのです。本当にほっとしました。
それから、テレビをつけると目に飛び込んできたのは、阪神高速道路が横倒しになり、バスが落ちる寸前に止まっているあの光景です。「とんでもないことになった!」という思いでいっぱいでした。何をどうすればよいのか、すぐに頭が整理できなかったことを覚えています。
私は、その当時八尾市に住んでいましたので、私の周囲で家が倒壊したり、けが人が出たり、まして命を落とした人はいませんでした。ですから、あの震災で6000人を超える人が命を落としたということも、「大変だ!」「手伝いに行かないと!」という思いはあるものの、人が命を奪われた心の痛みについては、どうも実感できていなかったと思います。というのも、学校に出勤してから次のようなことがあったのです。
教職員の中に、神戸方面から通っている若い先生がいました。数日は出勤しませんでした。「当たり前だよね。たいんだと思うわ。」と思い、同僚ともそんな会話をしていました。その先生が、ようやく出勤したとき「大変だったね、大丈夫だったの?」と声をかけたとき、先生は目に涙を浮かべて「大学の同級生と連絡がとれない、亡くなったかも」と言いました。私は、それに対してかける言葉を持っていませんでした。何と声をかけていいかわかりませんでした。その先生の言葉で、はじめて6000人を超える犠牲者の痛み、近しい人を亡くしたことの痛みが分かりました。情けない限りです。
今日は、1.17.もう子供たちはあの震災を体験していません。家族の中で、「あの日、なにが起こったか」を語り合える日になればと思います。