コメントへのコメント

 

「本日の感想」欄にたくさんのコメントをいただきました。

https://www.osaka-c.ed.jp/blog/imamiya/asm/2013/08/03-031749.php

8/4にいただいたものへの返信を書いてみました。

が返信です。(五)

 

※(五)というのは、

第5分科会担当者のハンドルネームです(安易な!)。

 

 

参加者からのコメント | 2013年8月 4日 |

情報処理速度の速さと表現の内実について

 

ICTの情報処理技術に関して、

・(生徒)書くにあたって、簡単に打ち込み・削除・訂正ができるという特性からハードルが下がりやすい。

・(教師)上記と同様の特性から添削指導、フィードバックがしやすい。

といった意見がありました。

一方で、分科会のなかで実施した掲示板交流には、

「鉛筆を持って手で書くということとICTで打つこととの間には、思考や表現に至るプロセスに違いがあるのではないか」

といったような声もありました(確か)。

これは考える価値のある指摘だと感じます。

書くということが人間を形づくってゆくプロセスである以上、

利便性の奥底で、こうした処理技術の変化がもたらすもの

(表現の質はどう変化するあるいはしないのか。処理速度が思考に与える影響は何か。など)

についても考えていかなければいけないと感じます。

 

重要な指摘だと感じます。

このこと自体を教室でのテーマにしてもよいのではないか、

というアイデアが浮かびました。

「手で書くこととワープロで書くことに違いはあるか」

例えば、

手紙を書く活動。

従来の便箋やはがきをつかう活動と、

メールをつかう活動を経験する。

その違いを考えてみる。

 

無意識に思考に与える影響、についても、

指導者は注意ぶかくあるべきかもしれません。

試験などでは一回きりしか書くチャンスはないので、

メモから、全体を見渡しながら一気に組み立てる訓練が要りますね。

しかし、

ワープロなら、とりあえず書け、ということになる。

頭の中のデスクトップで構成してからアウトプットしていた言語表現が、

いきなり断片として、

操作可能な、明示的な文字として書きつけられる――

そこで思考は弛緩してしまうのか、

いやいやそんなことはない、

視覚の参加がより思考を精確にする、のか。

 

書家の石川九楊氏のように、

書字の肉体性を強調する方もあります。

「字の一点、一画を書くことは大変なことなんです。

そこからでき上がる文字、言葉を政治家はあまりにも軽んじている」

と、新聞インタビューでおっしゃっていました。

一方、ツイッターなどで、

せきとめることなく言葉を流露させる人々も爆発的に増えました。

抵抗少なく言葉を発することの利点と問題点、

言葉を発する際の抵抗感を自覚することの利点と問題点。

「情報処理速度の速さと表現の内実について」という問題提起に、

国語教育は向き合うべきだと思います。(五)

 

 

参加者からのコメント | 2013年8月 4日 |

情報伝達技術に関して

 

伝達ということについて、具体的にはblogや掲示板の活用が紹介されました。

どちらも閉鎖的なもの/開放的なものが存在します。

いずれにせよ、それらは授業の一環で用いる以上、公の性質を持ちます。

それらは、投稿する生徒の側に一定の構えを要請しますし、公開に際しては教員による承認制を敷くこともできます。

そうした安全を確保しつつ授業実践の中で表現作品を公開してゆく中で、

生徒の表現がより良いものになっていくというご意見には深く納得しました。

かつては表現作品の公開といえば、読者範囲が限定されたり、

一部の生徒(文芸部員やコンクール応募者など)に限られていたと思いますが、

その限定が外されつつあるという実態は、指導者の指導のあり方や表現に対する構えに再考を促していると感じます。

 

一方、生徒を取り巻いている現状としてtwitterやfacebookといったSNSが存在します。

国語授業実践の中でICTの活用を、と考えた際、

〈授業内においては〉一定の質を確保した表現が可能である、

あるいは〈授業内においては〉処理技能上指導がしやすいて活動が充実する、

といった水準で完結してはいけないと考えます。

ネットという世界に開かれた空間における表現の可能性ということについて、

(てっとりばやく言えば、twitterやfacebookは〈表現〉なのか、や

その空間はわたしたちの思考や表現をどのように規定するのか、など)

本気で考えなければいけないと感じます。

 

自分の言葉が広く読まれる可能性がある。

そういう意識で言葉を紡いでいたのは、

これまでは、

作家や記者や、その他いわゆる知識人に限られていました。

私たちがこれまで〈教材〉としてきたのは、

そういった、〈全国民〉を読者として想定して書かれた文章でした。

そして、じつはそこに、

「書ける人」と「書けない人」という階層断絶があったと考えます。

私たち国語教師もまた、

(教室を超える世界に対しては)

「書かない人」でした。

 

しかし、

今や、大変な数の人間が、

「書いて」います。

ただし、

「自分の言葉が広く読まれる可能性」への意識なしに。

教室では蚊の鳴くような声でしか発言できず、

鉛筆を握っても書こうとしない子らが、

SNSの上では、

昼休みの雑談のように大声でしゃべっている。

 

「自分の言葉が広く読まれる可能性」を意識しながら、

それでも、自分の言葉として押しだそうとするとき、

それは〈表現〉になるのでしょう。

 

「twitterやfacebookは〈表現〉なのか」

そこに流れる〈表出〉が〈表現〉に進化するには、

守られながら、

しかし、「自分の言葉が広く読まれる可能性」を意識することを通じて

言葉を紡ぐ経験が必要だろうと思います。

 

国語の教室は、

〈表出〉から〈表現〉への橋渡しの場でありたい。

 

「つぶやきは力か」という拙稿を

参考に掲げておきます。(五)

 

tsubuyakiwachikaraka.pdf 

 

 

参加者からのコメント | 2013年8月 4日 |

国語表現の評価について

分科会の掲示板利用の中で、評価について触れたコメントが2、3あったように思います。

現場の実態として、

・最後に評定をつけなければならない、

・それは誰もが(他教科や学校外の人間も含め)納得し得る客観的指標でなければならない、

という構えが見えるような気がします。

一方で、表現されたものの良し悪しはどのように評価しうるのか?という葛藤も感じます。

評価する、ということに関しても、十分に一つの議題になるように感じました。

 

評価、の問題は、教育として実施する以上、いつも問題になります。

そして、

特に表現の評価、が話題になります。

その裏には、

〈表現〉以外のものは、ペーパーテストで比較的客観的な評価ができる、

しかし、〈表現〉の評価は主観的になりがちだ、

といった考えがあると思われます。

 

教師・子どもも含めて、私たちの社会は、

どうも、〈入学試験的評価観〉に深く侵されているように思います。

 

しかし、

表現されたものに返されるべきなのは、

54321といった数値ではなく、

言葉であると私は思います。

 

人間の言葉しか、人間の言葉を育むことはできないからです。

表現は、受け止められるべきものだからです。

表現とは、

伝わるかどうかの一つの賭けなのですから、

そして、それを教室でやる以上、

教師は、

アンテナを張って、

キャッチし、返球するのが仕事です。

「あなたの言葉を受け止めたぞ。さあ、もう一球投げてこい」

 

つぶつぶした言葉、

いやいやの言葉、

そういうものの中に潜んでいる種から、

何かが発芽するように働きかけるのが、

〈表現〉における評価だと思います。

 

どうしても数字で結論を出したいのなら、

課題をいくつ積み上げたか、

でカウントするとか。

100点満点の何割か、といった評価方法は、

あきらかにナンセンスです。

 

流通する評価観には問題があると思われることもあり、

おっしゃるとおり、

評価は重要な議題になると思います。(五)

 

指導者がコメントをつけている例

 

 

参加者からのコメント | 2013年8月 4日 |

論理について

 

全体会で、

「語彙力もあるし読書量もある。センターも解けるし、テキストの読み解きについても知っている。

それでも論理の力がない、というのはどういうことか」

といった投げかけがありました。

国語力であったり、ことばの力であったり、表現はいくつかありましたが、

「論理的に読む、ということを高校ではなぜしないのか」というのが、

発言者の根本にある疑問だったと思います。

 

エピソードひとつとれば(予備校にて数学の先生に「国語力がない」と言われた)、

どこの学校にもありそうな一幕で、笑いも生じようものですが、

これは、なかなか本質的で難しい問いかけだと感じます。

 

「論理」というものは明示でき、そして教授できるものである、

という前提に立ってこその発言のように思います。

「論理」はそのようなものなのでしょうか。

 

また発言者における「論理力」の有無判定には試験が大きく係わっていたように感じます。

受験対策ということについては、その必要が大きな学校では実施しています。

それでも「高校では身につかなかった」という実感。

予備校ではそれに気づけた、という実感。

何が違うんでしょうか。

論理力でテキストを読解した結果、たとえば2013年センター第一問が満点だった。

その結果をもって、小林秀雄を読めた、と言えるでしょうか。

 

「論理力」がテキスト読解に必須のものである、ということばに、

特に違和感はないように思います(語の厳密な定義は置くとして)。

そうであれば、そうした力の養成をわたしたちは日々実践しているといえる(はず)。

でも、そのような実感が高校生の側にはない。

なぜだろう。

 

もちろん、テキスト読解に必要な力というものは、

○○力、という一語に集約されるものではありませんし、

テキストの種類、読解者の技量、設問の質、受験制度などなどいろんな要素が絡んでおり、

端的に解答を示すことはできないと思います。

 

ただ、今回の問題提起はテキスト読解の技能的な問題ではなく、

読むという行為そのもの、テキストを読めたという事態の内実に係わってくる話でもあるように感じます。

 

 

「「論理」というものは明示でき、そして教授できるものである、

という前提に立ってこその発言のように思います。

「論理」はそのようなものなのでしょうか。」

というご指摘、考えさせられます。

センターで満点をとる論理力、というものがあるとして、

それで、小林秀雄をつかんだことになるのか、

という例示も、興味深いです。

読めた!

選択肢当たった!

は、違う、あきらかに。

 

また一方、数学の設問が要求する題意を理解する力は?

という問題もあります。

このあたり、

もっといろんな意見が聞きたいものです。

 

世には平板な論理観があって、

というより、

平板な論理が社会を支配していて、

例えば、

「...という前提に立つなら、...という結論になる」的な〈論理〉の前に、

「口べた」な私たちは、

沈黙しています。

何か変なんだけど、

専門家や賢い人たちが言うんだから...。

〈論理〉のもつ政治性を感じます。

 

教師も権力者です。

「君が数学ができないのは、

数学以前に国語力の問題だ」

といわれちゃった彼は、

国語の窓口へ行くけれど、

「国語力はある」

といわれてしまい、

途方に暮れるわけです。

 

ここには、

「数学」と「国語」をつなぐ場(土俵)、がありません。

それはおそらく論理が機能するために必要な場なのだと思われます。

それが、ない。

 

論理なるものが機能するには、場、が要る。

数学的論理の場。

文学的論理の場。

社会的論理の場。

そして、

論理とは純粋に、客観的(非人間的)なものではなく、

論理の機能には、

必ず人間が関係する。

 

純粋な論理のイデアがこの宇宙に潜在していて、

それをおれたちは知っていて、

知らないお前たちに教えてやろう、

といった論理観には、

すぐには賛成できません。

 

「道」の字義は、

人が踏み歩んであらわれるもの、ですが、

すじみち(論理)とは、そのようなものではないでしょうか。(五)

 

拙著より「論理と心」

 

ronri.pdf