聲の形

 土曜日の晩、午前中の中河内の説明会のプレゼンの疲れ、午後からのPTA実行委員会(ここでもプレゼンしてしまいました)の疲れが出て、のんびりと何も考えずにテレビを見ていた。いろいろ番組を選んでいて、ふと、NHKEテレを観たら、アニメをやっている。なんとなく見ていると、男子小学生が、女の子をいじめているシーン。なんとなく引きこまれて見ていた。

 少女は、耳の聞こえない西宮。いじめているのは、石田。そしてその友人たち。いじめが学校に知れることになり、校長先生が突如、教室に来る。そして担任は、「石田!」と黒板をたたいて怒鳴る。自分のやってしまったことがとんでもないことだとわかったのは、石田の母親が多額のお金を卸し、そして西宮の家に謝罪に行く、そして、汚れた母親の服を見たとき。

 この事件から、石田は、「いじめっ子」というレッテルを貼られ、逆にいじめられる。そして、5年後の高校3年生。石田は、心を閉ざしたまま、周囲との交流を断つ。彼から見た風景、アニメさながらの表現だと思ったのは、周囲の高校生の顔にすべて×が張り付いていること。石田の心の象徴。

 なんとなく見始めた「聲の形」。最後まで見てしまった。「感動」という言葉が当てはまるとは思えない。どういう言葉がいいだろう・・・「心が揺さぶられる」「心が痛くなる」・・・こんな言葉の方が近いかな。西宮との再会、徐々にできる友人たち、そして過去のクラスメートとの再会。石田のあまりにもの不器用さが腹立たしくもあり、いじらしくもある。それは、植野にも通じる。自分の思いや本音を、相手にどう伝えていいかわからず、戸惑い、ぶつかり、傷つけてしまう高校生たち。最後の石田の涙は、自分を受け入れ、周囲を受け入れる勇気を持ちえたからだろう。ここまでの5年間、彼を苦しめ続けた現実は、あまりにも過酷だ。「これが、思春期という時代だ」というならば、それは、あまりにも若者たちにとって酷ではないか。

 死をも決意する二人の若者たち。若者たちにとって、今の彼らの世界はそれほど生きづらいのだろうか。30年以上高校の現場にいる者として、彼らの心の振幅の大きさを考えさせられた作品だった。一体教師は何ができるのだろう。

多くの高校教師に観ていただきたい作品と思いました。それが「聲の形」です。

「君に生きるのを手伝ってほしい」という石田が西宮に言った言葉、なかなか頭から離れません。