平成26年12月24日2学期終業式のあいさつ

平成262学期終業式のあいさつ               平成261224

 

今年も終わろうとしています。今年私が気になったのは、サッカーJリーグの試合で、人種差別的なことがいくつか起こったことです。またヘイトスピーチも数年前から起こっています。ヘイトスピーチも人種、国籍、宗教、外見など、本人ではどうしようもできない先天的なものを持つ人をターゲットにしています。

大勢のこっち側が、少人数のあっち側を、言葉などで攻撃するという点で、これらは「いじめ」と同じ根を持っています。こっち側・あっち側と2つに分けてしまうことを、二極化と言います。

実は今年、高石高校でも、ほっておくといじめに発展するかもしれない事件がいくつか起こりました。子どもじみた「からかい」の段階でしたが、エスカレートしていく可能性がありました。子どもじみたことだから大目に見てはと思うかもしれませんが、私は高校生が子どもじみたことをするのは、だめだと思っています。

子どもには、二極しかありません。特に赤ん坊は、自分の欲求を満たしてくれれば機嫌がよく、少しでも欲求が満たされないとギャーギャー泣き叫びます。部分・部分の満足・不満足でしか判断できません。精神分析家メラニー・クラインは、これを「部分対象関係」と名づけています。

いじめやヘイトスピーチをする人は、この二極化した部分対象関係がまだ残っている、子どもだと思います。ただ、いじめやヘイトスピーチはエスカレートしていくので、最初のころ、気がつかないで、自分も一緒になってやってしまう可能性があります。エスカレートしてくると、ちょっとやばいなと感じても、やめようと言い出すのは難しい状況になっています。また一緒にやらなくても、黙って見ていれば、それらを認めたことになってしまいます。私たちはどうすればいいのでしょうか。

今年4月のサッカーのスペインリーグで、ブラジルのアウベス選手に向かって、観客席からバナナが投げ込まれました。サルの鳴きまねとバナナは挑発的な人種差別です。今回アウベス選手の冷静な大人の対応が評判になりました。バナナを拾って皮をむき、一口食べてからコーナーキックを蹴ったのです。バナナを投げ込むというのは、子どものすることだと機転を利かせてアピールしたのです。

こんな機転の利いた反応ができるか、私も自信はありません。でも、いじめに加わらないといいう判断を身につけるには、ものごとは二極だけではないと知ること、そして二極以外のところで折り合いをつけていくということだと思います。

①二極だけではないと知ること。たとえば、文化祭に向けてある提案がされたとします。当然、それに対してOKの人とNOの人がいます。でもOKからNOの間には、全部OK、全部NO以外に、かなりOK、まあまあOK、ちょっとNO、ほとんどNOといった、いろんなOKNOがあるのです。みんながまとまって文化祭に臨むには、いろんなOKNO を知り、OKNOの間を調整するしかありません。「多様化」への対応です。

②二極以外のところで折り合いをつけていくこと。社会に出ると、究極の二極、理想と現実というものに直面します。でも、どちらかだけを選ぶことはできません。大人は責任を持ってとりあえず前に進まなければならないので、理想と現実の間を調整する、つまり折り合いをつけるしかないのです。

○か×の二つしかないと思いこんでいることも、実は二つだけではないのかもしれない。そのことに気づくには、視線を変える必要があります。たとえば、この集会では昨年と違って今年から男女関係なく出席番号順に並んでいます。女子優先か男子優先かということではなく、男子と女子の2つに分けないということです。というのも、本人の責任ではなく、自分の性別に違和感を感じている人が少なからずいるからです。そういう人が、少なくとも並ぶときには違和感を感じないですむのではないかと思っています。

堤美香さんの「社会の真実の見つけかた」という本(岩波ジュニア新書¥907)を紹介します。競争社会が進んだアメリカで何が起こっているかを紹介し、社会の真実はマスコミ情報では見えてこないと教えてくれます。

当然と思えることもそうではないかもしれないと、別の視線で見る習慣をつけてほしいと思います。

いい年を迎えてください。これで終わります。