ドイツの学生たちの訪日紀が届きました

7月末に、ドイツのザールランド州から、4人の学生が富高を訪問しました。この時の様子は以前に紹介しましたが。このたび、ドイツから、その時の彼らの訪日紀が届きましたので紹介します。来日時も、とてもさわやかな印象を残してくれた四人でしたが、気持ちの優しい文章を届けてくれました。来年三月の、富高生の訪問が楽しみです。

この企画は、「JAPANPROJEKT」という企画で、全体は、www.japanprojekt.blog.de というHPに掲載されています。

 

Japanprojekt

 

カシオパイヤ・ヴェバー記

.二週間にわたる日本滞在で、私は二つのゲストファミリィーでお世話になりました。私には三つの家族が出来たことになりました。

ドイツに帰ってから、知人に「日本はどうだった?」と聞かれるたびに、最初に唇から出る言葉は(バカの一つ覚えのように)「すばらしかった!」と「信じられないほど素晴らしらしかった!」の連発でした。帰還してからの一週間は感激の連続で、ドイツと比べての日本のよい面ばかりを吹聴して回りました。

いまだに私は日本に魅了されています。特に彼らの親切さとお客に対する優しさは言語に絶するものがあります。特に面白い発見は、「私はアメリカ人ではありません、ドイツ人です」というと、知らない皆さんがとても親切になるのです。この言葉はこの国ではドイツ人に対してすべての扉をあけてくれる不思議な鍵のようでした。

到着して2日後には私の耳は日本語の音に慣れて、人の話している会話が大体分かるようになりました。多くの語彙を習いましたし、その使い方も習いました。特に皆さんが好く使われた語彙は「大丈夫」でした。最初に覚えた語彙は「暑い」でした。この語彙は蒸し暑さを知らない私にとって、たびたび使われました。残念なことに、自分で日本語を話すことははばかれて、たいていは身振り手まねあるいは紙に書いて意思の疎通をしました。にも拘らず、皆さん私が言わんとすることを的確に理解してくださいました、感謝です。

新しい味覚にも挑戦しました。Omorice, Pocky, Kushikatsuがそれです。カキ氷、たこ料理その外数々の私の知らないお魚の料理はおいしかったです。

富田林高校は我々のために二週間のすばらしいプログラムを作ってくださいました。その中には、剣道や、茶道、お料理コースの参加も含まれており、しかも体育館では「よじ登りの壁」の経験もさせてくださいました。

観光は京都の金閣寺、大阪城、そして山の中の多くの寺院と名前は忘れましたが有名なお墓のあるところも見学させていただきました。学校はいつもバスを貸しきってくださり、ゲステファミィーの姉妹と共に観光させてくださいました。あらためて御礼申し上げます。とても「すばらしかった」です。(ごめんなさい、またこの言葉が飛び出してきました。)

学校での生活はゲストファミリィーの姉妹が授業を受けている間、われわれは富田林高校のインタナショナルコミュニケーションセンターで日本語の勉強をしました。お昼休みの休憩時間が始まるとゲスト姉妹と共にお弁当を食べました。学校に「ランチタイム」があるということに大きな驚きを感じました。なぜなら、ドイツの学校ではありえないことだからです。ランチタイムもさることながら、クラブ活動という、放課後の行事にもびっくりさせられました。ドイツの学校にもこのようなクラブ活動を導入されればと、思いました。ドイツでは授業が終わると皆、ちりぢりばらばらに帰ってしまいます。いかに、日本の学生間の絆が強いかが、わかりました。

もっと驚いたことは、夏休みにも、生徒はクラブ活動のため、に出校すると言う事でした。ある日、われは学校でドイツについて話す機会がありました。ドイツでは何週間もの休みが教師にも生徒にもあるということを聞いて、日本の皆さんはかえって、びっくりしていました。

私は日本が大好きになリました、そして将来、機会があれば、再び日本へ行きたいと強く心の中で誓いました。ゲストファミリィーのママにもそれを誓いました。誓った事は守らなければなりませんよね。反省点として、自分の日本語能力がまだまだなので、もっと熱心に日本語の勉強をしなければと、意を新たにしました。

ゲストファミリィーの皆さん、私を受け入れてくださってありがとうございました。

富田林高校の先生方、私たちのためにすばらしいプログラムを組んでくださり、ありがとうございました。私たちが快適に観光が出来るよういつも私たちを引率してくださった先生、ありがとうございました。そして、学校の生徒さん、われわれに厚い友情を示して下って、ありがとうございました。また会う日まで!

 

ティム・フェルブルグ記

長らく夢に見た憧れの国に着くのだと思うと、飛行機に搭乗する前からボクは非常に興奮していました。世界の果てにあるその国が11時間をも要するということにたいして、ボクはあまり気にしませんでした。ひたすら、無事に着くことと、早くホストファミリーの方々に対面したいということだけを希っていたからです。着陸してからは、まず最初に高校へと引率されました、そしてそこで生徒委員長と知り合いになり、親友になることが出来ました。日本の生徒は、僕らが彼らに対して大きな好奇心を持っていたと同じく、ドイツからの生徒に対して、すごい好奇心を抱いていたということが分かりました。午後二時にやっとホストファミリーにたどり着きました。この時間帯にはホストファミリーにはママさん以外誰も家にいなかったので、まず最初に一眠りさせてもらいました。再び目を覚ますと御家族全員勢ぞろいでした。そしてボクを家族の一員のように温かく迎えてくださり、まるで異国にいながらふるさとに帰ったような、なんとも言えない気持ちのよさを感じました。最初の三日間はザールからの仲間と日本語の勉強をしました。週末にはホストファミリーと奈良を観光しました。多くの寺院を見ました。二週間目の週末は京都、大阪及びその近辺の観光でした。どこへ行くにも必ず生徒さんがボクたちにお供してくださり、笑いにあふれたに愉快な観光でした。日本の生徒は大変親切で、信じられないほど僕たちの希望を言わない前から察してくれました。日本での印象はと聞かれると、日本は美しい国だ、答えます。そして日本はドイツにはない文化があるので、新しい発見に満ち満ちています。二週間の滞在はあまりにも早く過ぎ去り、別れは大変悲しかったです。もっと、もっといたかったです。しかし、この二週間という滞在は本当に短期間でしたが、ボクの人生にとって、一番すばらしい二週間だった、とおもっております。いつまでも心に残ることでしょう。今では奨君の来独を楽しみにしています。僕が受けた多くの御好意をおかえし出来たらと思っていますが、自信がありません。でも心から待っています、これ、本当です。

 

 

ミュリアム・カルプフース記  第二の故郷

ある2013年の7月の朝、私は異国の航空地に降りた機内で、急に揺り起こされました。一晩中眠れなかったわたしの頭は朦朧としていて、我々を受け入れてくださる生徒さんと学校の先生が空港まで迎えに来てくださり、足だけが機械的に動いていた気がします。そして気がついてみると、私はザールランド州の仲間と共に大阪の富田林高校にいました。学校は我々のために歓迎会を用意してくださいました。心のこもった歓迎の言葉や、記念撮影や、お食事が出されて、まもなく、私たちはそれぞれのゲスト家族のお家に連れて行かれました。そのとき、多くの疑問や、恐怖心が私の頭の中を交差していました。一番の恐怖は、言葉の問題でした。日本語が理解が出来るだろうか、この2週間どのように暮らしていけばよいのだろうか等々、でした。受け入れ先のおうちについてからも、このような恐怖心がありましたが、突然睡魔に襲われ、家人にせかされながらベッドに入りました。

ぐっすりと熟睡した後、新しい力をえて、早速お祖父さんお祖母さんを含めたゲストファミリーとの対面が始まり、お土産をわたすこともできました。初日の夕食後、ゲスト姉と共に塾に行きました。ゲスト姉の春日さんとは最初から、とても気が合い、お互い大好きになりました。塾への道々ドイツのことを話しました。塾でも大歓迎され、塾の先生は多くの質問を私にし、授業の後、先生はもう一度来るようにと私を促しました。翌日は春日さんと朝食をいただきました。私の一日は朝食から始まり、そして毎朝春日さんにくっついて学校へ行くことでした。春日さんのお母さんは毎日お弁当を作ってくださり、お昼ごはんは学校でお弁当を食べました。その後クラブ活動やいろいろのことをして夕食の時間頃帰宅しました。漢字が読めないとか、日本語が上手くしゃべれないとかの最初にもっていた恐怖心は、まもなく、シャボン玉のように壊れていき、多くの心配事は危惧だったと分かりました。そして、日本での生活を楽しむことが出来ました。自由に行動が出来るようになり、一人で電車に乗ることも出来、そして何よりもうれしかったのは、カタコトで日本の友達と自由自在に会話が出来たことです。しかもゲストファミィーのご両親は、ある日、私に家の鍵を渡してくださいました。私を完全に信頼してくださっているという証だと私は理解し、うれしかったです。二週間の滞在で、私はお友達やゲステファミィーのご両親や二人の姉妹から、物質的にも、精神的にも、言い表せないほどの多くのものを与えられました。心から感謝しております。そして私自身も、この国や人々についてたくさん勉強しました。なお、私の日本語能力は急激に進歩したのではないかと自惚れています。

お友達やゲストファミリィーとはいまだに強い絆で結ばれており、そして、もう一度日本へ行かなければならない気持ちと、この国の人々や文化に対する愛着はますます強まるような気がします。日本は私の第二の故郷になりました。ゲストファミリーのママはドイツの私にCome home anytime と書いてきました。「もちろん!」と強く、強く私の心は返事を返しました。

 

 

ヤーナ・ゼアー記

飛行機がゆっくりと下降する間、私の指は神経質に自分の膝をたたいていました。耳への圧力は高まり、緊張感と楽しみを待つ喜びが滑走路において1メートルごとに高まってきました。やっと、11時間にもわたる死ぬような退屈さに終わりを告げる時がきたのです。実はこの退屈な時間が永久に続くのかもしれないと内心恐れていました。機内に準備されていた多くの映画や音楽のCDは何の役にも立ちませんでした。着陸前の私の興奮は最高潮に達し、機内の扉が明けられるまでじっと座っていることが出来ませんでした。でもこの恐れの混じった興奮さは私だけではなく、仲間の顔にもはっきりと出ていました。

やっと飛行機から出て、旅行者の行列に混じって、荷物受け取り場に行く途中にふと、日本の空気はドイツのとは違うな、と感じました。11時間にも渡る機内での空気を吸った私はやっと外のすがすがしい空気が吸えるものと思っていたにも拘らず、大阪の空気は77パーセントの湿度を含んだもので、びっくりしました。とは言うものの、この生暖かい空気は嫌ではありませんでした。自分は今異国にいるのだと、このうだるような暑さの中で、初めて感じた一瞬でした。この時点から日本での滞在は冒険に満ちたものとなりました。日本はすべてがドイツと異なっています。異国語で書いてある文字の洪水、学校や町の中で聞きなれぬ会話の音韻、その他数々。すべてが私にとっては「謎々」でした。ゲスト姉妹との初対面もちょっと問題でした。お迎えに来ていただいたにも拘らず、全然話す機会がなく、まず最初に富田林高校に連れて行かれ、学校は私たちのための歓迎会を開いてくださいました。我々が24時間一睡もしていないという事を誰も気づいてくれなくて、私たちは睡眠不足の醜い顔をさらけ出すことになりました。しかし、皆さんから温かく迎えられ、観察され、そして数人の学生さんが記念写真を撮ってくれました。その後、自己紹介があり、小さなゲームをして、やっと氷が解けたように、ゲスト姉妹との対面紹介がありました。最後に、はっきりと言える事は、私はこの滞在を心から満喫したということです。そして、もう一度日本へ行きたいという気持ちが日に日に高まってくるようです。もちろん言葉の障害はありましたが、しかしこの言葉の障害から生まれた「愉快な間違い言葉」もたくさんありました。言葉では表現できないので、相手を理解するために一生懸命に言葉探しをしました。貴重な経験でした。そして、このような経験の後のお別れは特に悲しいものでした。またお会いしましょうね、と何度も念を押すお別れでした。日本滞在はまるで夢の中の出来事であったような気がします。たった二週間という短い滞在期間でしたが、多くの文化遺産に接することが出来て、ドイツには絶対にないようなものまで見せていただきました。それを可能にしてくださった富田林高校に心から感謝いたします。

わたしの将来の道は日本への道にしよう、と固く心に誓いました。

 

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