歴代校長からの寄稿

Contributions from past principals

我が日根野高校に幸あれ

初代副校長 大谷 志津雄

 創立30周年おめでとうございます。思い返せば高校進学率が義務教育並みになり、昭和50年代には大阪府の高校進学者数は中学卒業生の90パーセントを越える勢いとなり、更に中学生の数も年を追って増え、昭和52年には十万人を越えて増え続け、62年にはそのピークを迎え14万8千人となった。そこで公立私立の高校関係者で公私連絡協議会が設けられ、対応策を練り、公私で増加する生徒数を5対3で引き受けることとした。しかしピークの後は生徒数は減っていくことが確実視されていた。
当時その様な状況を蛇玉と呼んだ。つまり、蛇が玉子を飲んだような状態というわけだ。私学課の主幹であった私は担当者としてその対応に忙しい日々を送っていた。最後の調整措置として、古い府立学校三校に、本校分校方式の分校を設けることとなった。島上高校-大冠校、枚方高校-津田校、佐野高校-日根野校である。これは、ゆくゆく生徒が減って言った時には、古い本校をなくし分校を本校にするという含みであった。かくて日根野は府立最後の高校となった。
校舎は池を埋め立て、その上に建てることになっており、工事は順調に進み、校長室と事務室が出来た昭和62年1月、校長辞令をもらって副校長として赴任した。同時に府から岩波利久氏が事務長として着任し、日根野校発足の準備を始めた。ハード面は岩波氏に、ソフト面即ち教員集めは私が担当した。教員の間ではかなり評判がよく、自薦他薦ずい分沢山の先生の希望があり、一方、大月校長の応援も力強く、優秀な幹部職員を得ることが出来た。少し苦労したのは出入り業者の選定であった。食堂、購買部、旅行業者、制服等々、基本は公平な抽選で通した。思えば貴重な経験をさせて頂いた。全ては未来へはばたく若き人を教え育む土台作りなのである。
 そこで日根野で学ぶ生徒諸君に望みたい。それは、一体自分は今人生のどの様な所にいるのかを考えてほしい。人生70年としよう。その半分は35。その半分は17.5。つまり君達は今人生の4分の1過ごした辺りにいる。しかし、ここ2~3年と大学や専門学校の3~4年で習い覚えたことを以て、以降の4分の3近い人生を歩んで行くのだ。と思えば今は重要な時期と知るだろう。どの様な人生を選ぶのか、どんな知識や技術を以て4分の3の人生を生きて行くのか、今真剣に考えるべき時だろう。そうして、どの道かを選び実際に歩き出さなくてはならない時なのである。全ては自分の為に。
 一日のうちで一番活動的な時間は殆んど学校で過ごしている。だとすれば、その時間が楽しくて有意義でなければつまらない。そうある為にはどうすればよいか。学校は勉強する所だ。さすれば勉強すればよい。分からないところは大いに先生に尋ねる。分かるまで教えを乞う。友達に教えてあげられる位になれば楽しくなる。やってみることである。全ては実行あるのみである。思いきってやる。それが勇気なのである。
 我が日根野高校に幸あれ。