13 芭蕉の蝉の句

 本校は今週初めから1学期の期末考査期間に入っています。先週は週末にG20が開催される関係で、2日間は学校も休業日となりました。大阪市内などは交通関係の制限もあり、厳戒態勢がとられていました。その週末から今週にかけては熱帯低気圧から発達した台風と活発化した梅雨前線の影響で日本各地が大雨に見舞わる事態になっています。御関係の方は本当に心配されていることと思います。

 この水曜日に熊本県の観光課等の方たちが学校に来られました。ぜひとも熊本の魅力を近畿の各学校に知ってもらいたいということで、何グループかに分かれて大阪、奈良、兵庫の学校を回っておられるということでした。昨年度は大阪地域も度重なる災害に見舞われましたので、いろいろと情報交換などをして、元気を出して復興に取り組むことの大切さなどが話題になりました。

 昨日から本校でもクマゼミが鳴きはじめました。数匹くらいですから、まだそれほど大きく響くほどではありませんが、やはり蝉の声を聞くと夏の到来を感じます。蝉の声といえば、松尾芭蕉の句を思い出しますが、あの静けさをしみじみと実感させる蝉の声を聞いていたのは誰だったのでしょうか。「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」。そんなのは作者に決まっているではないかと思いがちですが、本当にそうでしょうか。音が岩にしみいる様子を通常の視覚でとらえることはできません。それを可能にするのは心の耳で聞いたものを心の眼でもとらえるということでしょう。その時、芭蕉が把握したのはまず天地いっぱいに広がった聴覚宇宙だったと思います。その蝉の声はこの世界に存在するあらゆる音の象徴です。芭蕉自身も世界とひとつにならないとそれをとらえることはできなかったでしょう。自身が宇宙と一つになるのですから、そこでは通常の身体感覚としての聴覚や視覚などの境目はなくなるのです。この時、さて、蝉の声を聞いていたのは本当に誰だったのでしょうか?

 すばらしいのは、芭蕉がそういう深い身心レベルでの経験を五七五の17音のなかに凝縮して表現していることです。日本の短詩表現の豊かさと無限の可能性がわかるというものです。現代の文学研究ではもっと現実に引き戻して、この句が詠まれた状況などからいわゆる実証的にアプローチする解釈が主流なのでしょうが、私が生徒たちに授業をした感じでいくと、句の本質に精神的にも迫るようなアプローチのほうがワクワク感が出て、芭蕉の偉大さが生徒に伝わるようです。そのワクワク感をきっかけにして、芭蕉や俳諧文学に興味を持ったり、現地である山形の立石寺に行ってみたいと思うようになるのです。「ああ静かだなあ、蝉の声がまるで岩にしみいるようだ」という訳を学んだだけでは面白くないのは当然でしょう。

「感動を伝える」と簡単にテレビなどでも言われていますが、本当は非常に難しい。しかし、その難しいことをするのが伝統や文化を大切に伝えていくということでしょう。良い文学は心を豊かに育ててくれます。そのすばらしさを若い世代に伝えていくことは、文学や国語に関わる人間の使命だと思います。

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