• トップ
  • 2019年
  • 12月
  • 40 教育に関わって「文学」についてどのように考えるか(3)

40 教育に関わって「文学」についてどのように考えるか(3)

「文学にはどういう特質があるから生きていくうえで必要になるかもしれないのか。」この問いかけで前回この話題について書いた文章を終えました。今回は詩と小説について考えてみたいと思います。

 まず、「詩」です。我々は様々なことで心が大きく動きます。その感動は言葉でどのように表現できるでしょうか。できるものなのでしょうか。言葉は他人に意味を伝えるために、一般的な性質(自分以外の人にも共通してわかるという性質)を持ちます。微妙なニュアンスの違いはあるにしても、日本語で「美しい」と言った場合にAさんとBさんとで全く違う内容をイメージしていてはコミュニケーションが成立しません。しかし、自分のその感動そのものはかけがえのないものなので、一般化できません。ある景色を見て「キレイ」とか「美しい」といいますが、心底感動した場合には言葉が出てきません。ありきたりの言葉では言い表せないからです。小田和正の歌に「言葉にできない」というフレーズがありますが、そういう状態です(あの歌の場合の対象は恋でしょうけれど)。ところが一方で、その感動は自分の中で表現されることを求めてやみません。そういう時にできることは、感動を「かたち」として表すことです。音のかたち、線のかたち、色のかたちなどなど。それらのうち、言葉のかたちで感動を表したものが「詩」になります。自分の感動に釣り合うような美しいかたちを言葉で工夫して造形するのが「詩」です。たとえば、万葉集にある山部赤人の富士を詠んだ有名な和歌は、田子ノ浦の海岸線から、高嶺に雪が降る中で噴煙を上げる富士山の偉容が目に触れた瞬間の感動を言葉のかたちにしたものなのでしょう。

 一方、「小説」は具体的な経験をフィクションとして描きます。登場人物の経験を言葉で描写するのです。言葉を通して経験がどういうものであったかを述べます。たとえば、哀しいけれども、本当にすばらしい恋をした登場人物の心情を様々なアプローチで作者は描いていきます。そういう恋の相手と飲むコーヒーはふだん飲むコーヒーと同じ味でしょうか。その気持ちで目に映る花の色はふだんと同じ色でしょうか。違いますね。化学成分はまったく同じはずなのに、好きな人と一緒にとる食事と嫌いな人と一緒にとる食事は心情の影響を受けて味が変わるのです。作者は登場人物の内面に入り込み、その時の心情にしたがって物事を描いていきます。読み手である我々も言葉を通して、その世界に入ってゆくのです。登場人物が経験する、二度とは訪れないであろう哀しい恋の喜びの思いに我々も共感して心を震わせる。この人と一緒に見るこの景色を同じように見ることは二度とないだろう...。

 詩でも小説でも文学というのは「愛」や「死」に象徴されるような、繰り返しのきかない一回限りの感動の経験を表現したものです。そんな繰り返しのきかない経験を表したものが人生の役に立つのか。その経験は独自のものであるにしても、我々自身誰もが生きていくかぎり繰り返しのきかない経験をすることには間違いありません。その点において、我々はお互いに共感することができるのです。他の人の悲しみや喜びなどがわかるのです。文学は深い経験の美しさや意味を具体的に伝えてくれる。同時に、孤独な個人の経験をつないでくれる。そして、その言葉の世界にふれることで、自分の人生の経験を豊かにすることができる。自分の恋では冷静になれない人でも、フィクションで描かれた登場人物の恋であれば客観的に見ることができる。そういう性質を利用して国語の授業で人生経験の意味について考えたりすることにより、豊かな人間性を育むのです。そういう点で、組織的に行われる学校教育の中で「文学」が扱われていることには大きな意味があると私は考えています。