67 みんなで協力しあうための言葉の節度について

本校は臨時休校になっています。教職員は通常勤務を続けていますが、生徒たちは自宅で待機をしています。本来であれば、部活動をしに来ている生徒たちの元気な様子を見ることができるのですが、グランドも校舎内もまったく生徒の声が響いていない状態です。本校でも休校に入るまで、ほとんど日にちが無かったので、予定を大きく変更せざるをえなくなり、現在も調整を続けているところです。このブログでも在校生や保護者の皆様に連絡できるものはしていくつもりです。ただし、今後の状況ではここからまだ変更していかざるをえなくなるかもしれません。連日の報道でもほんとうに気がめいるような内容のものが多いですね。

不安に駆られると、誰でもまず自分のことを考えがちになります。自己生命の保存をまず図ろうとするのは、生物の基本でしょうから、これは仕方がありません。最初から利他的な視点も含めて行動するのは難しいと思います。それに、本当に命に関わるケースに直面している人もいるので、そういう場合はまず命を優先するのは当然です。しかし、そこまでいかない場合に、どういう言動が見られるかで、その集団の人間関係の質が問われるのもたしかです。我々人間は理性的に共同生活を営んでいます。生物の中には同種族から完全に孤立しても生きるものがいるでしょうが、我々には無理です。共同生活を送る対象をどこまで広げるかによって、社会的なものごとの判断は違ってくるのですが、少なくとも、今回の感染症に関わる動きでは、国内でも利己的な言動があからさまに見られるケースもあって、残念に思いました。

需要と供給の関係をふまえて、ある程度の利益を見込んでの商売のための動きはあって当然です。そうでないと商売をしている人たちの生活が成り立ちません。けれども、本当に困っている人がいる、もしくはいる状態になることがわかっているのに、何かを買い占めて非常識な高額で儲けようと図る。共同体がうまく機能していくために必要な良識がゆらぐようなレベルでは、認められないのではないでしょうか。(たとえば、食べ放題スタイルの店では高級料理であっても他の人にもいきわたるように加減してとるようにしています。もし、出てきた料理を全部独り占めしてとってしまうような人がなかにいると、落ち着いて食べることができなくなり、雰囲気が悪くなります。良識をゆるがすとはこういうことだと思います。自分勝手な者が得をして、良識に従って行動している者が損をする状態です。良識に従うことはばからしいから、やめておこう、という話になります。)

また、情報化社会に住んでいると、すべてのことが情報的に明らかになるべきだと思い込んでしまいます。そうすると、不安要素を抱えた未知の存在に対する恐怖は大きくなります。そして、不安要素に関わるものはすべて排除や攻撃の対象にされてしまいがちです。「こんな時に個人のプライバシーを云々している場合ではない」「すでに罹った人には気の毒だが、犠牲になってもらうしかない」「判断をまちがってリスクを招いた者は徹底的に糾弾されるべきだ」という傾向のコメントが多くみられるようになります。

感染拡大防止のためには、共同体の成員同士が協力することが必要です。協力するためにはお互いに信頼関係を持つことが大切です。排除や攻撃は信頼を生まずに、悲しみを生み、恨みを生むに至ることはいうまでもありません。同じ事態を招かないためには、私もいたずらに責任をあいまいにするのは、よくないと思います。問題は、攻め方が不信感を深めてしまうような状態になることです。排除や攻撃の言動にはふだんからその人が抱えている別事のうっぷんや怒りが付け加わりがちです。歴史をみると、誰かを犠牲にして、集団の維持を図ることの繰り返しですが、個人の生き方のレベルではスケープゴートにされた者の苦しみや辛さに思い至らないと、その想像力や思いやりを持たないと協力して問題の解決にあたる信頼を生むことはできません。過度の協力必要論は、異なる弊害の原因になるのですが、拡大防止のためには、信頼を損なわない程度の言葉の節度も大切だと思います。