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20 お盆の風習について考えてみよう(夏休みシリーズ⑥)

上高生のみんなはどのような盆休みを過ごしましたか。少しはゆっくりとできたでしょうか。自分を見つめ直す機会になりましたか?お盆は祝祭日には位置づけられていないので、特定の日を休日とはしていませんが、盆休みと言えば8月15日前後をさすことが多いです。考えてみれば、「盆」というのは上に物を載せて、運ぶための器のことですが、それが行事の名称になっているのがおもしろいですね。たぶん、盆のうえに祖先への供え物を載せていたのが、象徴的な名称になったのでしょう。今回はお盆に民俗学的なスポットをあてて考えてみましょう。(特定の宗教や文化を勧めるものではなく、知識の紹介として読んでくださいね。)

少しお盆の話題から離れますが、日本の祭りにおける祖先との関わりについてまず押さえておきましょう。民俗学の権威だったある人は、古くから日本では祖先は山の神となってそこから子孫の生活を見守っているという考えがあったと述べています。私なりに民俗学的な見方でまとめると、春祭りは田植えの季節と重なりますが、そこで迎えられた山の神は地上に降りてきて田の神となるのです。田の神は穀物に宿り、豊穣をもたらします。そして、収穫の秋祭りでは、豊かな実りを授けてくれた田の神に感謝をささげ、山の神として山に戻るのをお見送りするのです。春と秋の祭りは米を主食としてきた日本人が季節のめぐりのなかに祖先神との繰り返される出会いと別れを儀式化したものだと言えます。

では、お盆はどうでしょうか。お盆がなぜ現在のようなかたちになったかについても仏教や儒教の影響があり、諸説があって、はっきりしませんが、短期間に祖先の霊を迎えて送り出すところに特徴があります(きゅうりとなすの乗り物が用意されたりしますね)。祖先が戻ってくるときには目印が必要です。たとえば、大文字焼のように火を目印にします。私の父方の祖母はお盆になると玄関で使い古しの割りばしなどを燃やしていました。

夏祭りの盆踊りの場合は中央のやぐらが目印です。リズミカルで楽しそうな歌、笛、太鼓と踊りとで神々や祖先の霊を呼んでいるのです。神霊は回転運動をしている中心部の高いところをめざして降りてくるとされます(昔の日本では室内でグルグルと走り回ることはタブーだったのですが、霊的なものを招いてしまわないようにということでしょう。不用意に夜に笛を吹いてはいけないというのもそうです。ちなみに、日が暮れた五条の橋の上で弁慶と出会う時に牛若丸は笛を吹いています。その時は牛若丸自体が当時ではこの世のものとは思えない姿で登場します。美しく化粧して、薄絹のかぶりものをし、しかも立派な太刀をさしたかっこうです。弁慶のような剛勇の者でないかぎり、関わろうとはしないでしょうね。)

一体感を覚えてリズムに陶酔する祭りの踊り手は神々や祖先の霊などを招いているのです。(私には各地の踊りの手腕の動作は「神さん、ご先祖さん、こっちやで」と手招きしているように見えます。阿波踊りなどは上のほうにあげていて、典型的だと思うのですが。)そのうち、降りてきた神霊は一緒に踊りだします。面をかぶって踊る人は自ら神霊と同一化し、それを演出しているのです。(夏祭りで面を売る文化的な背景にはそういうことがあると思います。)夜、明かりのもとで人々は神々、祖先や親しかった故人と楽しく一緒に時を忘れて踊ります。しかし、明るくなるまでに霊的存在は違う世界に戻らなければなりません。古いかたちでは、円運動をしていた踊りは、やがて解かれて村はずれまでの行列となります。そこまで踊りながら見送るのです。夏祭りに練り歩き型が見られる理由でしょう。お盆や夏祭りなどは短い間に祖先との再会と別れを再現した儀式だと言えます。(ちなみに正月も本来は歳神となった祖先の神霊をお迎えし、もてなしてお送りする期間です。)日本に限らず、諸国のカーニバルや祭りは精霊との出会いと別れの儀式であるのがほとんどです。

どうも民俗学的、文化人類学的なことはおもしろいので、書き出すときりがありません。このへんにしておきますが、民族宗教に関わりなく、人間は現在の生活を本当により良いものにしていくためには、その今の我々の生活をもたらせてくれた過去の人々との付き合いを大切にすることが必要だということをよく知っているのです。我々は忙しいと、ともすれば現在から未来ばかりを見がちです。時間があるときには、過去を見つめ直すことが大切である、それが自分を見つめ直すことにつながるということを上高生のみんなにも知っていてほしいと思って今回のブログを書いてみました。