15 言葉で自分を表現するということ

先日、桃山学院教育大学のフォーラムで興味深いことを聞きました。その話をした講演者は文部科学省の官僚の方だったのですが、小学校での暴力行為の発生件数が平成25年くらいから急に増え始めているということでした。どのくらいかというと、3年前で高校の2倍にのぼっているというのです。それ以降の推移を示す資料はなかったので、昨年度がどうなっているのかはわかりませんが、グラフの急激な上昇の仕方からいくと、相当数にのぼっているのではないかと思います。

その原因は何なのでしょうか。講演者は簡単にふれて、言葉による表現ができないことが問題だと指摘していました。それだけが原因だとは思いませんが、私もそれが大きな要因の一つではないかと感じます。上高生のみんなは自分の経験などを省みてどう思いますか。どういうことなのか、暴力はどういう時にふるわれるのかを一緒に考えてみましょう。

相手がいて、その相手がこちらの意に沿わない言動をした時に、暴力がふるわれるケースがほとんどでしょう。では、相手が自分の意に沿わない言動をした時には必ず暴力がふるわれるかというと、そうではありませんね。我々は自分の不快な思いを暴力以外の手段で伝えることができるからです。その代表的なものは言葉で自分が感じていることを伝えることです。相手がこちらをしつこくからかってきた時に、いきなりポカリと殴るのではなく、「しつこいなあ、からかうのはやめてえや、ムッチャむかついてんねんけど」と言葉で伝えます。

ところが、自分の思いを言葉(もちろん手話などを含む言葉です)で表現できないとどうなるでしょう。たとえば、言葉をまだ習得していない赤ちゃんは泣いて空腹などを伝えます。言葉で表せない状態では、直接に(言葉を介さないで)身体で表現するしかない。暴力は自分の不快な感情を身体行為で外に出したものです。つまり、人間は自分の不愉快さを言葉で適切に表現できない時に、暴力行為に及んでしまうのです。

だとすれば、現代の小学生では、自分の感情を適切に言葉で表現できない児童が増えているのではないか、と推測できます。感情を適切に表現するためには、それを周りの大人の言動から学んで、自分でも真似をしながら習得する必要があります。たとえば、親が子どものした悪い行為に対して自分の不快感を伝える時に、いきなり体罰をくわえるのではなく、ちゃんと言って聴かせる。その行為がなぜいけないのかを伝えるとともに、そのことで親である自分自身がどれほど悲しい思いや腹立たしさなどを感じたかを子どもにわかるような言葉で伝える。I(アイ)メッセージで伝えるわけです。(「お母さん(=私)はほんまに心配したで。」)You(ユー)メッセージでは相手への非難や批判ばかりになってしまいます。(「あんたはほんまにどうしようもない子やな」「おまえはいつもこんなことばっかりして」)第一、子どもは体罰を加えられただけでは、その恐怖が無いところではまた悪い行為をしてしまいます。

たとえば、家にいても、レストランにいても家族全員がスマホの画面を見ていて、会話がほとんどない。子どもが水をこぼした時に、「なにしてんねん」といって頭をポカリ。それで終わり。スマホを見ること自体を否定するのではなく、せっかく家族で大人と一緒にいるのに、ずっと画面ばかりをみる時間が多すぎることが問題だと思うのです。自分の感情を言葉でうまく表せない子どもが、人間関係の複雑な学校生活の中にいれば、暴力で不快な思いを発散させざるをえない状況に追い込まれることは当たりまえでしょう。

Society.5.0など近未来の社会の便利さが話題になっていますが、いくら世の中が進歩しても、自己表現の技術は必要です。学校での人間関係の複雑さを問題視することも可能ですが、子どもたちは大人になった時にもっと複雑な人間関係のなかで生きていかねばなりません。大人社会では利益利害関係がより大きく人間関係に入ってくるからです。子どもたちが適切に自分を言葉で表現できるようにするためには、家庭生活と学校生活の両方で大人社会からそれを学ぶことが必要です。当然、学校の国語の時間だけでは限界があります。言葉を使って適切に表現する力を育むような環境を子どもたちの周りにどのようにして作っていくのか。便利さの追求ばかりでなく、そういう課題も解決していける社会にしていくことが、近未来について考える時に大切だと考えます。

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