43 大阪の人々のコミュニケーション能力について考える

テレビやラジオなどで「大阪の人間はもともとコミュニケーション能力が高いから」というような発言をよく耳にします。ビクビクすることなく初対面の人にもコンタクトをとって、ものを言うことができる。しかも、適度に話の間をとり、笑いの要素も入れながら、多くの言葉を話すことができる。そういうイメージがあり、番組の制作もそういう点が際立つような演出や編集をしています。具体的には、該当インタビュなどでも、そういうイメージに合う人を選んで画面に登場させることなどです。「しゃべくり文化」というくらいで、私も大阪出身ですから、いわゆる大阪人(おおさかじん)の言葉についてのポテンシャルには高いものがある、と思ってきました。会話を楽しむ、そういう点ではたしかに大阪の人々は上手だと思います。しかし、最近、高校の国語科教育について考えているうちに、話はそう簡単ではないのではないか、と思ってきています。

たしかに私が教壇に立ち、担任等をしている時にも、休み時間などには生徒たちはよくおしゃべりをしていました。私に対しても、「サカイセェ~ンセェ、ちょっと聞いてえや」という感じで話しかけてきて、手振り身振りを交えて表情豊かにしゃべりつづける生徒が多かったです。はたで見ていると、話負けをしないように、たくさんの面白そうな話題をもって、互いにしゃべりを競い合う、といった感じの友人グループもあります。

しかし、そういう生徒たちが国語の授業になり、発言を求められると、なかなか言葉が出てこない。問題の内容にもよりますが、そのような場面では私はできるだけヒントを出したりして、その生徒に答えさせるように努めていました。わからないから次の生徒にあてることは授業を進めるための時間の節約になるかもしれませんが、その生徒の発言力を育てることにはつながりません。生徒にしてみれば、教師があきらめないのは面倒だなと思うかもしれませんが、たとえば就職して会社の会議の場で発言を求められて「私にはわかりません」と答えてすませるでしょうか。最終的に具現化すべきなのは「教師のあるべき授業」ではなくて、「生徒の力の伸長」です。

ふだん意識しないでしゃべっている状態(自然発生的な会話状態)での言葉の能力が高いからといって、意識して言葉を話さなければならない場面でもその力が高いかというと、必ずしもそうではない。自己反省も含めて、大阪の場合は教える立場の側にも、生徒たちはもともと会話力があるのだから、わざわざ育成に力を入れる必要はない、という気持ちがあるのではないか、と私は考えるようになってきています。これから多くの生徒たちが直面していくのは、相手と状況によって言葉を「意識的に選んで」、コミュニケートする社会でしょう。どこでも同じように自然発生的な会話しかできないというのでは、これだけ人や物の流通が激しくなり、初めて出会うような人たちと短期間で意思の疎通を図らなければならない状況では、対応が難しくなるのは明らかでしょう。

大阪でも万博がありますが、外国からの観光客に対して話しかけるにしても、いきなりフレンドリーになるのではなく、はじめは敬意と礼儀を持って接するのがエチケットでしょう。「Where do you come from?」と突然に見も知らぬ人から言われてどう思うでしょうか。「お前はどこからきたのだ」と声を掛けられる。初対面の、自分よりも年若い人間から旧来の友達のように言われれば、どのように感じるでしょうか。実際に、外国人と会話してみよう、と言われているのでしょうが、中高生が実践している場面でヒヤヒヤした経験が何度かあります。相手は報酬に見合った分で、自分の練習台として付き合ってくれる英会話の先生ではありません。日本に観光を楽しみに来ている人たちです。「May I help you?」と言うにしても、本当に困っていそうな人に言うのはいいですが、困った様子もなくのんびりと観光をしている外国人にかける言葉ではないはずです。初対面に近い場合、敬意と礼儀をわきまえないところでは、良いコミュニケーションは成り立ちません。

意識的に言葉を選んで話をすることが必要な場面でもスムースに状況等をふまえて発言できること。地域の良い特色もふまえて、生徒たちにそういう力を育成するためには、どういう教育が必要か。大阪の国語科教育の課題の一つとして、以上のような問題意識を持っています。その方策についても思うところがありますが、まだまだ素案段階です。とにかく、大阪であれどこであれ、これからの社会では自然発生的な会話以外の場面での言葉の力がしっかりと求められていくことでしょう。