52 「社会的な実力」の育成を目標にする一つの理由

私は常々、本校で「社会的な実力」の育成を目標とすることの必要性を述べてきました。そういう実力を育むこと自体が大切なのは言うまでもありませんが、今回は違う角度からその理由を書いてみたいと思います。未来志向型の教育目標である、ということがその要点です。

我々は生きていくうえで、様々な悩みを持ちます。悩みがひどくなって、苦しむレベルになることもあります。それらは、人生の課題として我々に解決を迫ってきます。課題ですから、逃げても違うかたちで繰り返し姿を現してくることが多いものです。思春期の課題が中年期にぶり返してくることもあります。苦悩を解消するためのハウツー書を読むと、たいていの場合「逃げずに課題に直面せよ」と書いてあります。私も悩み、苦しみ、そういう類の本をたくさん読んだほうだと思います。そんなことはわかっている、直面すること自体が苦しいのだ、と思う人も多いでしょう。私もそう感じたことがありました。

我々の人生はそれこそ個性的ですから、誰にも当てはまる課題解決のための万能薬は無いと思います。けれども、苦悩に出会った時のための、心の基礎体力作りはできると私は思います。以前のブログで書いた「レジリエンス」の考え方がそうです。具体的な解決策はケースバイケースで、その時々に判断しなければなりません。しかし、ものごとのとらえ方、考えの枠組みは普段からの心がけで課題解決に役立つかたちにしておくことができるのではないでしょうか。

専門家ではないので、おおざっぱに書きますが、臨床心理学の世界では過去に焦点を合わせる考え方と未来に焦点を合わせる考え方があります。たとえば、「自分は幼い頃に大きな犬に追いかけられて怖い思いをしたので、大人なっても犬が怖くて嫌いだ。」という人がいます。このケースは過去の出来事(トラウマ)が現在の自分のあり方を決めています。これはフロイトという精神分析学者の根本的な考え方です。「自分は動物に親しみを持ってこなかったが、この子犬を大切に育てることができるようになりたい。」という場合は、未来の目標が現在の自分のあり方を方向づけています。こちらは最近流行しているアドラーという人の心理学の根本的な考え方になります。

過去をしっかりと見つめて乗り越えていくことは大切な課題です。フロイトはそのための治療を開発しました。しかし、過去に焦点を当てる見方に縛られてしまうと「自分は過去にあんな経験をして、こんなことをしてしまう人間になったのだから、仕方がない」という「いいわけ」ばかりをしてしまうことになります。現在の自分の苦悩をいつまでも過去のせいにして、周りの理解と同情を当てにしてしまう(そして自分を納得させようとする)のです。この考え方の問題点は自分が変わろうとする姿勢が出にくいところにあります。それに対して、アドラーの考え方は「目的を実現するためにこれから自分はどうすればよいか」というふうに自分を変えようと前向きになりやすいところに特徴があります。(フロイトとアドラーの学問的優劣について述べているのではありません。)

私が社会的な実力の育成を教育目標に掲げている理由の一つには、そういう実力育成目標を持つことで学校生活が前向きなものになるということがあります。生徒たちはすでに様々な経験をして生きてきています。つらい思いをしてきた生徒もいます。その思いが続いている生徒もいるでしょう。そういう生徒に前向きな希望を与えたい、過去に必要以上にとらわれることなく、しっかりと目標、目的を持って堺上高校で学校生活を送ってほしい、と私は考えています。アドラーは「We are not determined by our experiences〈我々の生き方は過去の経験そのものによって決定されるものではない〉」と言い切っています(日本語訳は私の意訳です)。「but are self-determined by the meaning we give to them〈そうではなくて、過去の経験をどう考えるかによって、それにどういう意味を持たせるかによって、生き方を自分で決めているのだ〉」と言っているのです。要は、過去のつらい思いがトラウマだけになるのか、将来への成長の糧ともなるかを決めるのは、自分自身の考え方、ものの見方しだいだと言うのです。

つらい体験やマイナスの経験は生きていくうえでの大きな糧にもなります。同じような境遇の人の気持ちがわかりますし、その切り抜け方もわかっているので同じような経験をしたときにもたじろがないで済みます。実際には、我々はそういうつらい体験などを糧にして、将来の自分の目的達成のために「これから自分はどうしていくか、どう変わっていけばいいのか」という姿勢を持ち、支えてくれる人たちに協力してもらいながら、人生の課題に向かっていくことが大切になるのでしょう。

教育はけっして万能ではありません。しかし、子どもたちがそういう試練を乗り越えていくときに、できるだけしっかりとした拠り所となるべきものだと私は考えています。