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32 教育に関わって「文学」についてどのように考えるのか(1)

高等学校の国語の時間に扱われる文学作品の「量」の問題をめぐって、雑誌やマスコミで様々な意見が交わされています。作家や研究者の間から、扱われる作品の量が少なくなるので、文学を軽視しようとしているのではないか、という批判が出ているのです。そのことについては、私なりの意見はあります。しかし、今回は無造作に使われている「文学」という言葉について整理しておきたいと思います。なぜなら、教育現場では、きちんと整理された用語に基づいて議論をしないと、単に批判の応酬に終わってしまいがちだからです。学校教育は計画に基づいて行われるものですから、それについて考えるのであれば、用いる言葉の意味について整理しておくことが必要なのです。

文学作品というと、どのようなジャンルが思い浮かびますか。多くの人は、小説(物語)と詩歌と答えるのではないでしょうか。学校の国語の時間に習った教材は主にこれだったし、文学史として覚えたのも物語や和歌、小説や詩だったということです。源氏物語の作者は紫式部で、古今和歌集は勅撰和歌集。夏目漱石の「こころ」はおもしろかったけれど、森鴎外の「舞姫」は文章が難しかった。中原中也の詩は覚えていないけれど、顔写真はかわいらしかったな、などなど。

しかし、ジャンルを主に物語や詩に限定して文学だとしているのは、実は英国、米国などの特定の地域国々です。一方では、すぐれた文章であればジャンルをあまり問わずに文学として認める地域や国もあるのです。哲学者や宗教家の書いた文章も文学として扱われるわけです。ヨーロッパ大陸や中国などにその傾向がみられるのですが、たとえば加藤周一という評論家はその基準で日本の文学史を書きました(『日本文学史序説』)。その本では、空海や道元という僧侶が書いた宗教書、本居宣長や西田幾多郎らが書いた思想哲学の文章が「文学」として取り上げられています。

どちらが日本の文学を豊かなものとして把握できるかは明らかです。ここでは、文学といってもどう定義するかをはっきりとすることが重要で、可能性としてはジャンルを広げることもできるということを確認しておきましょう。おそらく、当面は我が国の国語の時間に文学として扱われるのが物語小説や詩歌であることには変わりはないと思われます。

少し個人的な意見を述べます。特定の思想やイデオロギーについて書かれた文章を公教育の場でテキストとして扱うのは問題があるでしょうが、若いころに、主に日本語で書かれたすぐれた思想哲学の文章を読んで、思考力を磨き、人間や人生について思索を深めることは非常に大切なことではないでしょうか。

その点では国語教科書には評論文も載っているのですが、最近では理解が容易で(教員が教材研究するにあたってもということです)、内容的にあたりさわりのないものを選ぶ結果、私の感覚では人間洞察や世界像構築という点では意に満たない文章が多いような気がします。たとえば、立派な日本語で書かれた、言葉を通して人間と人生と美の関係について思索を深める教材としては小林秀雄の文章に匹敵するものはあまりないでしょう。ところが、一昔前には小学校の教科書にも載るほど(「美を求める心」)だったのに、現在の教科書では小林の文章がほとんど載っていません。近年、センター試験に使われて、難しすぎるといって物議をかもしたことはありましたけれども。女性であれば白洲正子や池田晶子といった人たちの書いた文章はこれからどんどんと教科書に載せるほうがいいと私は個人的には感じています。彼女らの文章を読んでいると、女性ならではの感性を通しての、言葉で構築された普遍的な人間把握の可能性というものをまざまざと感じるからです。男女を差別するのではなく、それぞれの独自性を生かしてしかも人間的に深いレベルに達しているものをきちんと取り上げていく。私が読める範囲の文章は知れています(特に今は読書量が減ってしまっています)。どういう文章をこれからの日本社会を生きていく若者たちに教材として提示してくべきか。そういう議論も盛り上がることを願っています。