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36 教育に関わって「文学」についてどのように考えるか(2)

「人生に文学は必要か、必要ではないか?」-このような問いかけにどう答えるでしょうか。作家や文学研究者は必要だと言うかもしれません。しかし、そんなものは必要ないという人も大勢いるかもしれません。このような問いのかたちをよく見かけますが(たとえば究極の選択など)、あまり実のある議論を生んでいることは無いようです。結局は、人それぞれだ、ということになるからです。

人生において、文学が必要な人もいるし、必要でない人もいる。ある小説を読んだからこそ、あの苦しい時を乗り越えて現在の自分がある、そういう人にとって文学作品は生きる糧になったのです。けれども、生まれてから一度も文学作品をすすんで読んだこともなくて、それでふつうに人生を送っている人にしてみれば、文学が生きる上での必須の存在だというわけではないでしょう。この二人が最初の問いをめぐって議論をすればどうなるか。平行線をたどって終わるのが落ちです。もしかすると、理屈を言うのが上手なほうが勝つかもしれませんが、それは実のある議論になったとは言えません。

話し合いをするうえで大切なのは、双方が納得できる結論に至ることであって、勝つか負けるかではないからです。(ディベートというのは議論の能力を磨く練習ですが、あくまでも言葉のやりとりの仕方を洗練するためのものであって、相手を言い負かすためのものではありません。)残念ながら、文学軽視についての話題でもともすれば、こういう極端な問いが前提になっているケースが多かったような気がします。

「文学にはどういう特質があるから人生に役立つ可能性があるのか」-この問いかけであれば、実のある議論ができると思います。特に教育の場面で「文学」を扱うにあたっては、この問いに対する答えをしっかりと考えておくことが重要でしょう。これから先に役立つかどうかわからないものを教えるのはいかがなものか、という意見もありがちですが、一生に一度も実際に使わなくても(これからの時代にはそれも考えにくいですが)、英語の学習を日本では行います。

その子にとって先の人生で英語が必要になるかどうか、数学の難しい公式や化学の元素記号の知識を使うことがあるかどうか、それはわからなくても、ありうるかもしれない可能性があるから学ぶわけです。この意味で、教養を身につける目的は知性の練磨と未来の可能性の拡大です。

「実際に生きていくうえで必要な知識だけを教えればよい」という考え方を「実学主義」と言います。福沢諭吉を持ち出して、これを強調することがありますが、福沢自身はそのような単純な言い方をしていません。たとえば、あの日本近代のあけぼのの時期に福沢はこれからの日本の若者は「数理学」を学ばねばならないと述べています。衣食の点で必要性を満たせばそれ以上に学ぶ必要はないという人からはこういう言葉が出るはずがありません。福沢諭吉ほど将来を担う青少年の可能性を信じ、それを大切に育むことを説いた人物は少ないと思います。「学問のすすめ」をはじめとする福沢の教育論を読むたびに、胸が熱くなり、勇気を鼓舞される教育関係者は私以外にもたくさんいると思います。

では、文学にはどういう特質があるから生きていくうえで必要になるかもしれないのか。少し文章が長くなってしまったので、それについての私の思うところは別に機会があれば書いてみたいと思います。