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50 お互いの関係をふまえてコミュニケーションをするということ

昨年のことでしたか、私が利用している駅で、発車した電車に乗ろうとしてエスカレーターを走り下りてきていた男性が乗れなかったので、向かい側車線に停車していた運転手をいきなり怒鳴りつけたことがありました。「なんで俺が乗ろうとしてるのに発車してしまうんや」というような激しい文句を初対面の若い女性運転手に言っているのです。電車は時間通りに出ていました。こういうことを言う人には、自分は特別扱いをされても当然だ、少しくらい待ってくれてもいいではないか、と思っている人が多いようです(近頃問題の危険運転でも同じようなことが加害側にいえるようです)。あまりなので、私や他の人が近づいていくと、男性は憤然とした様子でその場からいなくなりました。たとえば、上高生のみんなは、こういう場面に出会った時に、どのように感じますか。

アメリカの精神科医にジョージ・ウェインバーグという人がいます。彼によると、世界で最も一般的なフレーズは「誰も私のことをわかってくれない」というフレーズなのだそうです。感情的になると、我々は状況や相手のことなどを考える余裕をなくします。相手には相手なりの事情があったり、考えや気持ちの動きがあったりするということが分からなくなります。そうなると、状況や相手の言動を判断する基準は自分の事情、気持ち、考えに限られてしまいます。もし、あなたが相談を受ける側の立場になって、感情的になっている人の話を聞いている場面で次のようなことがあった時にどう思うでしょうか。

①相談を聞いていて、状況的に考えるとその人にも譲ったほうがいいのではないかと言うところがあったので、それを伝えたところ、初対面にも関わらず「私がこんなに忙しいのにそれがわからないんですか」と言われた。

②相談に乗っている途中で、本人の言い分を少しだけたしなめたところ、出ていったその人が熱湯を持って入ってきて、「私はこんなに真剣に考えている」と言って、その湯の中にいきなり手を突っ込んだ。

①のようなケースはよくあると思います。「この私がこんなに~なのに」という言い回しは親しい者どうしの間でもよく使われます。「私がこんなに心配しているのに」「私がこんなに苦労しているのに」など。まだ親しい家族間などであれば、ふだんのことを知っているはずだということがあるかもしれませんが、①の例では初対面の場合です。②のように自傷行為にいきなり走るケースは、自分の感情は自分の身体的苦痛と引き換えても認められるべきだという固定観念にとらわれている場合が多いようです。どのような事情があるにしろ、もちろん身体を傷つけることはあってはならないことです。

①②いずれの場合も、自分の感情がすべてを包むくらいに激しくなりすぎて、相手と自分の関係をふまえることができていません。幼少期は誰でもこういうところがあります。ほしいオモチャを目の前にして大泣きしてその場を動かなかったりします。しかし、成長につれて他者と様々な経験を共有するにつれて、適度な社会性を身につけて、感情をコントロールすることの必要性を自覚していきます。親がてこずる「イヤイヤ期」も親の意図を察することで自分の意思を形作ることをしていますので、大切な成長のプロセスだと思われます。

第二次反抗期の子どもがある時に急に「親や教師に反抗するのがばからしくなった」といいますが、それは自分と相手の関係性を客観的に見ることができるようになったということでしょう。(「イヤイヤ期」「反抗期」に何らかの理由で、そういう自我の感情を発散できないで、抑え込んでしまった場合については「抑圧」といって、色々と論じられています。)

感情的になると自分のことだけしか考えなくなる、相手のことを考えなくなるから気をつけようと言いますが、自戒の意味も込めて、私は教員としての経験から、自分と相手の関係もわからなくなってしまうので、ひとまず冷静になることが必要だと思っています。この相手ならばじぶんのことをそこまでわかってくれなくても当然だ、という判断をすることができるかどうか。たとえば、子育ての苦労を知らない幼い子どもに「どうしてお母さんの気持ちがわからないの!」と言っても、無理なことが多いかもしれません。一生懸命になるあまりに教師が生徒に「俺がこんなに心配しているのに、なんでやねん」と感情的になっても、まだ互いの人間関係も浅く、教師の立場を考えたことのないうちは、その生徒には言葉の空回りを起こすだけかもしれません。

思春期以降に進路を考える場合でも、親は現実生活の厳しさを知っていますから、家の経済状況を考えて意見を言うのですが、子どもは親がケチるのは自分の愛情が不足しているからだと怒りを覚えているというケースも実際に出会ってきました。親は子どもが自分の言うことを聞くのは当然だと思っている。そうして、話もせずに互いに不満を抱えている。話し合っても、感情的になっているので、互いに相手の言うことに素直に耳を傾けることができないのです。三者面談などでは、そういう場合に教員が「親愛を持った」第三者としてもつれた糸をほぐしたりしていきます。けれども、当事者同士が相手と自分の関係性をふまえて、冷静になり、一緒に相談できるのが理想的でしょう。場合によっては、解決を急がずに時間や距離を置いたほうが良い場合もあります。

互いの関係と状況をふまえれば、大きなお世話より小さな親切のほうがふさわしい場合も多いのではないでしょうか。一度一緒に食事をしただけなのに、車庫のない家に住んでいる人に誕生日祝いで大きな外車をプレゼントする。プレゼントをいきなり売るわけにもいかないので、車の扱いに困ると思います。それよりは、この間は楽しかったですね、、またご一緒させてください、と心のこもったメールや手紙を送ったほうがふさわしいでしょう。

なかなか理想通りにはいかないと思いますけれども、初対面同士、親密な関係性を持った者同士、いろいろなケースが考えられますが、互いの関係をふまえたうえで、感情をコントロールしつつ、コミュニケーションを図っていくことが大切だと思います。前回、言葉のコミュニケーションで言葉そのもの以前に大切になることを述べたので、その内容を少しくわしく考えてみました。皆さん、良い週末を迎えてください。