ある高校での架空の一場面です。
A、B...高校2年生の男子生徒 C...A、Bのクラス担任 (A、Bのふたりが朝の教室の窓際でマスクをして距離を空けて会話している)
A:ちょっと、家で過ごす癖がつきすぎたし、暑くなってきたから学校に行くのが億劫になる時ない か?
B:俺はあんまりそんな風には感じないけどなあ。外出我慢している間、早く学校行けるようになってくれないかなって、ずっと思ってたから。時間をつぶすのに難儀をしたよ。
A:いや、俺もそう思ってたような気がするけど、実際に学校が再開されだしたら、今日も学校かあ、と朝から思ってしまう。
B:たしかに、暑いのにマスクを着けて過ごさないといけないとか、気をつけないとだめなことが多いのは面倒だなって思うけどね。
A:この間、電車のなかで咳き込んでいる子どもがいてね。ちゃんとマスクしているのに、周りの乗客からじろじろ見られて、その子のお母さんがどうしようっていう感じでオロオロしていて。小さい子どもはこういう気候の時は体調も崩しやすいのかもしれないねえ。
B:俺は小児喘息だったから、なんかちょっとの刺激で咳きこんでた。もし、今のこの状況でどうしても公共交通機関に乗らないといけなかったとしたら、うちの親も困った状況になったかもしれないね。他人事じゃないよ。
A:コロナ特集の番組で「同調圧力」っていう言葉をとりあげて説明していたけれど、いきすぎるとコロナ感染症とは違う社会的な問題を起こしてしまうね。
B:へたに外出して、別に悪いことをしていないのに、怒られるような可能性が高いのなら、いっそのこと、ずっと家にいようかな、っていうことになるなあ。
A:そうそう。これだけオンラインでのやりとりができるようになってるんだから、学校の勉強もそっちを主にしたらいいんじゃないかって、思うことがないこともない。
B:それは、そもそも学校に行くのがちょっと面倒くさいなあって君が思っているからだろう。俺は授業はやっぱり学校の教室でしないといけないところが多いと思うよ。
A:どんな点が?
B:いや、コミュニケーションという点で。
A:そうかなあ。ZOOMでギャラリービューを使えば、教室も家も同じような気がするけどなあ。先生が教室で前の子の陰になって寝てしまっている生徒に気づかないことがあるけど、オンラインではすぐに気づけたりするよ。
B:うーん、俺が言うコミュニケーションの問題というのは、そういうのじゃなくて、なんて言えばいいのかな、えーっと。
A:あっ、C先生。おはようございます。
(C教員も二人とは距離をとりながら話に入る)
C:おはよう。早い時間に登校しているんだね。
A:ええ、ぐずぐずしてしまいそうなんで、親にも言って早めに家を出ているんです。
C:B君もかい?
B:いいえ。ぎりぎりの時間帯は電車が混んでますから、親からもしばらくは早めの時間のものに乗りなさいって、言われているんです。
C:そう。それは大切なことだね。まだまだみんなで気をつけないとね。今も君たちはちゃんとソーシャルディスタンスをとってるね。えっと、ところで今日の日直は誰だったかなあ。昨日書き換えて帰るのを忘れてね。
B:昨日は僕がしましたから、今日はDさんですね。
C:ありがとう。ところで、何か議論っぽい感じで話をしていたみたいじゃないか。
B:ええそうなんです。Aがオンラインの技術が進んできたので、無理に学校の教室で授業をする必要はないんじゃないかって言うので、僕がそれは違うっていうことを言おうと思うんですが、なかなかうまく説明できないんです。なにか、コミュニケーションの点で大きな違いがあるような気がするんですけれど。
A:いや、だからそんなに違いはないって。先生はどう思われます?もっともっと技術が進んで、サイバー空間のリアリティが高まれば、本当に同じだと思うんですが。
さて、このA君の問いにC教員はどういうふうに答えるでしょうか。今回は、生徒と教師の架空のやりとりで書いてみました。この問題はこれからの日本の学校教育について考えるうえで、とても本質的な課題です。きっかけはwithコロナですが、教育のありようが国家の根幹に関わるという点で、加速度的に進む技術革新のなかでの「授業における学びとは何か」ということについて、国民全体で考えるべきものだと思います。私なりの考えは別の機会に書こうと思いますが、よければ皆さんも考えてみてください。