3年生は今日が今年度初めての授業日になります。本格的な全面再開はまだ先になりますが、徐々に体と心を学校生活が組み込まれたパターンに戻していくことが必要です。集団での生活は必ずある程度の我慢をしなければならない場面が出てきます。生き方のリズムやペースが異なる多くの人間が一緒に行動することになるからです。各人のリズムやペースを社会的なリズムやペースにうまく接合していくことを身につけることも、学校教育の意義の一つでしょう。義務教育の6年間を受けての高校生活はその総仕上げになります。教室などで教師と生徒とが一緒に良い授業を作っていくことも、そのことに大きく結びついているのは言うまでもありません。
「教室はいつも朝だった。」日本でもよく読まれている「幸福論」の著者である、フランスの哲人アランの言葉です。学生時代に尊敬する師ラニョーの授業を受けるたびに覚えた感動を述べたものです。物事を新鮮な視点でとらえる真の哲学的思考を持つ、すぐれた教師からものを学ぶことができる喜びの経験がアラン哲学に精神の翼を与えました。ラニョーは若くして亡くなってしまいますが、アランは終生師への尊敬心を持ち続けて、67歳になってからこの師のオマージュにあたる本を書いています。「こういう場合にラニョーならどう考えるだろうか」アランは心のなかで生き続ける師との対話を繰り返していたのだと思います。(もう30年近く前になりますが、当時同僚だった方に、私と同じようにアランが好きな英語教員がおられて、すでに手に入りにくくなっていた『ラニョーの思い出』をいただきました。)
社会の変化にともなって、学校教育のあり方も変わっていく必要があります。しかし、禅で言う「面々伝授」、すなわち人と人とが直接にやりとりする場面での教えや学びの経験が育みの基本であることは変わらないでしょう。