11月に入って寒さがもう一段階歩みを進めた感じです。今年度はいつも以上に換気をする必要があるので、寒い時期でも教室等の空気の出入りを確保することが大切です。例年よりも早いですが、学校でも暖房を使用する時期になってきています。
今回は「知識」について、西高生のみんなに考えてもらいましょう。「知識」というものをどうとらえているか、ということです。抽象的な話題ですが、とても大切なことですから、書いてみます。クイズ番組を観ていると、「さすがに歴史の知識については強い!」「魚の知識では敵なし!」などの言い方がされます。そういう場合の知識は「事実」をさすのがほとんどでしょう。「本能寺の変は1582年に起こった」「ブリやスズキは出世魚である」。日本では多くの人が「知識」=「事実」というとらえ方をしているとされています。これは日本の教育が正誤を問うテストの文化で、幼いころからその正解を知識として求められ続けるということが原因だという説があります。
そういうことの反省もあって、新しい教育の流れでは「知識」=「事実」ではない、ということが強調されているのです。「覚えた事実の量」が多ければ知識が豊かだという見方は違うというのです。ある物体を見せられて「これはスプーンというものです」と教えられる。しかし、大切なのはその食器をどのように使ってどのようなものを食べるか、ということがわかるということである。実際に活用できるところまでを含めて、「知識」なのだということです。そのレベルの知識を習得するためには、他の人が食べる様子を参考にして、自分で実際にスプーンを使って食べることを繰り返すことが必要です。幼いころはそうしてスプーンでの食べ方を身につけたはずです。
「知識」とは単なる「事実」の集積ではない。「活用できる知のシステム」である、というのが新教育でも強調されることなのです。「こんなことを覚えて何になるん?」と教壇に立っている時によく言われたのですが、たしかに生活場面で実際に活用できる可能性が低い「事実」を大量に覚えることへの疑問は起こって当然かもしれません。新教育の知識観の背景には、活用しない「事実」を「知識」として詰め込むことへの批判があるにちがいありません。ただし、考えてほしいのは「システム」をダイナミックに活用するためには、できるかぎりたくさんの関係する「事実」を覚えて、自由に使いこなせるレベルまで使いこなし方を身につけることが大切だということです。ダイナミックな活用の力は、様々な場面で鍛えることで身についていくものです。高校の難しいい教科内容の学習にはその力をいろいろな教科で身につけていくという側面もあると思います。湯川秀樹が物理学の理論を考えるにあたって中国の古典が一つのヒントになったというのは有名な話です。
私自身は「知識」=「事実」というイメージがこれほど定着している状態で、コペルニクス的にそのイメージを転換するのは簡単ではない、と考えています。ですから、求められた機会では、従来のイメージをふまえたうえで、新しい教育の考え方を紹介しています。「知識」そのものをどう認識するか(知識観)を「エピステモロジー」と言います。知識観も社会の状況に対応するように変えていかねばならないのですが、イメージレベルで浸透している従来のとらえ方にどう接合して、どのように「生きて働く知識」を学校で、そして社会全体で育んでいけばいいでしょうか。これからの社会を担う高校生にもしっかりと考えてほしいと思います。自分のエピステモロジーを顧みることから始めてみてください。