35 授業の定番教材

 人間の歴史が進むほど社会文化的な情報量は増えます。日本の歴史に限っても、2000年時点の情報よりも2020年の時点の情報のほうが20年分多いわけです。この20年に起こった出来事を振り返ってみても、大きな社会現象がたくさんあります。一方で、学校での学習時間は有限です。10年前であろうが、50年前であろうが、生徒が学習に充てることのできる時間はそう変わりません。学ぶ必要のある情報はどんどんと増えるのに、それに充てることのできる時間は変わらない。たしかに、学校によっては一日当たりを7時間や8時間授業にしたり、休みを少なくしたりして授業時間を何とか増やそうとする工夫が行われています。しかし、それだけでは消化すべき学習内容に追いつけそうではありません。

 そこで、学習内容の選別や簡素化などということが起こってきます。実はこれが大変です。どれを残してどれを外すか。選ぶということは選ぶ基準をまず選ぶということです。たとえば、昼食を何にするか。それを決めるためには、値段を基準にするか、味を基準にするかをまずはっきりさせなければなりません。これが子どもたちの勉強の話になると、その基準の設定自体が至難のわざになるのです。誰もが納得できる基準などまずないので、その時代の社会の状態に照らし合わせて、基準が決められることが多いのでしょう。たとえば、現代では「即効的な実用性の有無」が学習の必要性の基準になる傾向が強まっています。

 さて、国語の現代文分野の授業でもどの近代文学作品を定番教材として残していくかという課題があります。多くの教科書に載って教えられるということは、その国に暮らす人々の共通教養になるということです。共通教養はその国の文化を形成し、そのレベルを決めてゆく礎(いしずえ)です。未来を創っていくには質の良い言葉が欠かせませんが、その言葉は共通教養が育むものです。本居宣長なども言うように、豊かな言葉の力と結びついた想像力を育てるのには良い文学がうってつけです。

 たとえば、「羅生門」「山月記」「こころ」「舞姫」といったところが高校の現代文の定番教材でしたが、最近では特に「舞姫」はあまり扱われないようになってきているイメージを私は持っています。自分で教えた時の生徒の反応を思い出して、そのことを残念に思っているのですが、実用的、効率的という基準で選別するとすれば、「舞姫」が外れるのは仕方がないのかもしれません。しかし、言葉の美しさ、表現が帯びるロマンの表情、これまでの高校国語科教育での尊重度合い、それに作者の文化的な位置の重要さという基準ではかれば、どうでしょうか。ある共通教養が無くなるということは、その国の、ある歴史的過去が無くなるということです。他にも「雁」「阿部一族」「渋江抽斎」など、文学の言葉としての質の高さから考えて、私は個人的には森鷗外文学の良さが人々の認識から失われていくことがないようにと願っています。

 科学的な合理性を重視する者が能率の追求ばかりではなく、同時に自然や芸術などの美しさ、歴史文化のすばらしさを理解し、多様な他者を認めるやさしい心を持つことができるかどうか。そういう基準が教育の場から忘れられていくことのないようであってほしいと思います。

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