4 ICTと教育活動について考える

 小林秀雄に「良心」というエッセイがあります。冒頭部分で「嘘発見器」がとりあげられていて、機械崇拝の度が過ぎることへの危機感が述べられています。嘘をついている時の心理状態は身体に一定の変化をもたらすはずだという前提のもとに作られた機器でしょうが、かけられている本人が緊張しすぎて同じような反応を引き起こすかもしれません。いや、その場合は反応が微妙に違うのだというかもしれないが、人間の身体生理のあり方はそれこそ千差万別だろうから、区別できるのだろうか。要は、最終的にはその機器がもたらす結果のデータを読み取り、判断をくだすのは人間だということが小林は言いたいのです。

 量に還元できるものを測定できる力では人間は機械にはかなわないでしょう。けれども、たとえば歌唱力を機械ではかることに我々は慣れていますが、カラオケマシンで測定できるのは歌唱力のうちの「音程」「音の長さ」などの一部にすぎません。それが唄のうまさだという人もいるでしょうが、機器ではかれるのものの表出は機器のほうがすぐれているでしょう。機械が正確に表出した「唄」を我々はそれだけでうまいと思うでしょうか。操作を駆使して微妙なニュアンスを再現できるかもしれませんが、その時に頼りになっているのは人間の聴覚であり、「音楽的なもの」を聴き分けることのできる力です。

 ところが、デジタル技術が進んで、今や相当複雑なものも、つまり一定質的な部分も量的なもの(0と1)に変換して測定、表出することができるようになっています。デジタル革命です。そうなると、小林が抱いていたような危機感がいよいよ現実味を増すようです。性能のすぐれた機器、機械があれば何でもできそうな気がする、というわけです。しかし、単なる表出ではなく、それが「表現」である以上、人間自身の精神や知などが背後で働いていることはまちがいないでしょう。我々の日常生活はエラーやノイズなどに満ちています。そういうものをも包み込んで対処する力こそが「思考・判断・表現」で求められるものでしょう。

 ICT機器を扱えることはこれからの社会生活では必須になることは間違いありません。ですから、その適応性を学校にいる間に身につけさせることは大切になります。1人1台端末によって、それを保障していくことに大きな意義があります。しかし、それが機械崇拝と合わさって、最初に「活用ありき」の「べき論」の突っ走りになってしまうことには危惧を覚えます。豊かな人間性全体の発達に即した「知」の育みこそは公教育にしかできないことでしょう。その大きな目標のためにいかにしてICTを有効に活用していくのか、という視点を忘れてはいけません。

 小林秀雄の「良心」は孟子の性善説にふれています。どのような人間であっても、「良心」があれば、嘘をついたときには動揺が起こるはずだ。つまり、嘘発見器も人間の善性を前提にしている。我々が他の人々とともに生きていくうえでは、機械を信じるよりも、人間性を信じることのほうが大切なのだ、と小林はあらためて言いたかったのではないでしょうか。

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