堺地域では夜にかけて天候が荒れ気味になるという予報が出ています。現在も大変風が強い状態になっています。この時期は日ごとに天気が変化することが多いようですが、今日は終礼時には生徒に帰宅時の注意を呼びかける必要を感じています。
さて、今年の大河ドラマは鎌倉時代が舞台になっています。脚本の日常会話の部分などがあまりに現代的なので観ていても抵抗があるという意見があります。私は一つの作品としてドラマを観るようにしています。歴史的な実証をふまえることが大切ですが、できたものが独立した作品としての一つの世界を作り上げていることも大切です。
親の影響で時代劇が好きになったうえに、テレビの時代劇全盛時代に育ったので、たくさんの時代劇作品を観てきました。同じ時代や人物をとりあげている違う作品も観てきましたが、「作品」としての出来栄えが面白いかどうかにかかっていると思います。そのうえで、私の場合は、「平家物語」や「吾妻鏡」などの古典と比べて楽しんでいます。好きな時代ということもあるでしょうが、とても面白いと感じています。一方で、作品世界に入りながらも、いろいろと自分ならこうしたいなというところも出てきます。それも含めての楽しみということになります。
前回の放送では源義仲の最期と源義経の鵯越をとりあげていました。特に前者は平家物語「木曽殿の最期」として高校の古典授業でも定番教材となっているところです。平家物語では今井四郎兼平が鬼神のごとき戦いと壮絶な自刃を果たす場面が見事な文体で描かれていて、自分の主の義仲にはみっともない最期をさせたくないという思いとともに胸が熱くなるところです。その場面は大河ではあっさりと省略されていました。そして、義仲の最期に関しても平家物語では総大将にふさわしい立派な鎧兜を着用していて、兼平に「ふだんは何とも思わないのだが、今日は重く感じる」というのです。兼平はそれでも励ますのですが、その弱音を聞いても命運尽きて、もはやこれまでと覚悟を決めるのでした。
私なら最期の義仲には立派な鎧兜を着せるような脚本を書くと思います。亡くなった時にみっともない格好をしていては名折れだという意識が強かったと思うからです。そのほうが、剛勇をもって鳴る兼平や巴をしたがえて、木曽から都にのりこみ、平家一門を追い払った風雲児である義仲のイメージにふさわしいと思います。滋賀の琵琶湖畔にある義仲寺がドラマ紀行で紹介されていて、松尾芭蕉が義仲の大ファンだったことにふれられていました。風流を愛した芭蕉がなぜ荒くれ者だった義仲をそこまで好きになったのか。やはり「平家物語」が持つ物語世界の魅力、そこに描かれていく義仲のイメージの魅力が芭蕉を魅了したのではないでしょうか。
高校の古典でも授業改善の必要性が強く言われています。新しい指導要領では古典作品とそれを基にした映画やドラマなどと比較してみることが勧められています。映画やドラマを観たうえで、自分ならどう映像化するかと考えてみる。それをするためには、その古典作品の魅力がどこにあるかがわかっていないといけません。それをどう脚本化して、演出するか。言葉をなぞるだけでは古くて難しい文章にすぎないものを登場人物が生き生きと躍動する物語世界へとまず自分の中で変えていく。古典の授業自体を現代の若者に魅力的なものにしていくためには、その肝心なところをどういう工夫によって実現していくかが問われていると考えています。